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『週刊新潮』の記事について⑥:<嫌韓流>を必要不可欠とする<佐藤優現象> 

<嫌韓流>に関して著述のある、板垣竜太氏より、『週刊新潮』の記事について重要な指摘を含んだメールをいただいたので、該当部分をご本人の了解を得た上で、以下、引用する。
-------------------------------------------------------------------『週刊新潮』の記事の特徴として、これまでブログで挙げておられる点に加えて、記事が、<嫌韓流>の話法に則って作られている点が挙げられると思います。

「岩波関係者」の発言で興味深いのは、「金」(以下、この記事内で描かれている表象としての金さんを指す場合、現実の金さんと区別して、「金」とさせていただきます)が、「抗議」や「社と関係の深い作家の批判」を繰り返すようになったため、困って編集長が異動させたという(事実経緯としては誤りを含む)話をする前段に、「金」が、「当初は通名でしたが、何時の間にか韓国名を名乗るようになった」という話を挿入している点です(金による注:この叙述を読んで、私があたかも朝鮮人であることを隠して入社したかのように受けとめる者もあるだろうが(むしろ、そう解釈させるよう書かれているとすら言えるが)、それは事実に明白に反する)。

これは、表象のレベルでみれば、明白な言説上の効果をもたらしています。「金」の通名から韓国名(本名と言うべきでしょうが)へという変化が、「金」が岩波の「和」を乱すような非常識な「抗議」「批判」をくり返す人間になったことと、対になって語られている点において、表象のうえでは、<嫌韓流>の話法をそのまま反復する構造となっています。<嫌韓流>でも「朝鮮人」「韓国人」たちは、自らの分をわきまえず、日本社会の「和」を乱す厄介な存在として描かれているからです。

この「岩波関係者」の話によって<嫌韓流>モードにスイッチが入った読者は、次の佐藤氏のことばも、難なく同じモードで受容するでしょう。「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容です。」<嫌韓流>でも、「朝鮮人」「韓国人」たちは、しばしば興奮しながら「言ってもいないこと」をあげつらって、「滅茶苦茶」な論理で日本人を糾弾する者として描かれているからです。「クール」な「日本人」と、「火病」(<嫌韓流>系の用語)をわずらった「韓国人」「朝鮮人」という表象の構図が、ここでも鮮やかに再生産されています。

「岩波関係者」も佐藤氏も、タテマエとしては<嫌韓流>を否定するでしょう(金による注:佐藤は、「日本外交官に浸透した「嫌韓流」」(『金曜日』2006年4月14日号)で、<嫌韓流>的な認識に基づいて書かれた外交官の報告文書を批判している)。ひょっとしたら新潮の記者も、そんな意図はございません、と言い張るかもしれません。しかし言説の効果というのは、まずこうした本人の意図やタテマエとは関係なく作用するものです。どのような場で、どのような文脈で、どのようなことばが配置されているのかが、何よりも重要なのです。この記事が、<嫌韓流>の話法を用いて構成されていることは否定できないでしょう。
---------------------------------------------------------(引用終わり)

板垣氏の指摘を踏まえた上で『週刊新潮』の記事について考えてみると、仮に、「岩波関係者」と佐藤が単なる証言者であることを超えて、この記事の作成に関与しているとしたら、両者は<佐藤優現象>批判に対して、言論を用いてまともに反論せず(できず)、事実を歪曲し、<嫌韓流>に基づいたプロパガンダで<佐藤優現象>批判の声を封じようとしている、と言われても仕方がないであろう。

それだけではない。「岩波関係者」と佐藤優のコメントとが、記事という言説の上で、<嫌韓流>の話法を媒介に結びついている点は、<佐藤優現象>を考える上で、重要な問題が含まれていると思われる。

私の論文「<佐藤優現象>批判」で指摘したように、<佐藤優現象>の重要な特徴とは、在日朝鮮人(ただし、「善良」とされた在日朝鮮人を除く)を排除した上で、「日本国民の一体性」(佐藤の言葉)を守るために、諸マイノリティを取り込むことを志向する「国民戦線」である。リベラル・左派が佐藤優を使うことは、論理的には必ず自己矛盾を孕む。そのことに、リベラル・左派は内心よく気づいているからこそ、「空気」が乱されることを過敏に恐れるのである。だから、リベラル・左派が佐藤優を使うことがおかしいなどと、「空気」を読まずに(読めずに、ではない)批判する朝鮮人に対しては、「国民戦線」が構築され、そこから「お前分かっていないよ、まぁ、そうムキになるなよ」と「クール」な話法を用いて「火病」におちいった「朝鮮人」が表象上で貶められることになる。

この点は、オーストラリアの社会学者、ガッサン・ハージの『ホワイト・ネイション』(平凡社)が提示する枠組が参考になる。ハージによれば、支配的な多文化主義の論理が、レイシストと同質であるからこそ、寛容は「あっというま」に不寛容に移行する(ハージは、多文化主義が国是であるオーストラリアにおいて、1990年代、排外主義的レイシズムの台頭に対し、リベラル・左派が抵抗力を持たず、難民・亡命希望者への排他的な風潮がまたたく間に支配的となったことを念頭に置いている)。排外主義的レイシストは、自分たちの「寛容」の限界を超えている人々のみを対象にして排除を行なうのであり(<嫌韓流>も同様)、自分たちの支配を脅かさない範囲で、受容可能な(「過激」ではない)マイノリティのみ許容する構図自体は、支配的な多文化主義も同じである。

ハージの論理を応用すれば、リベラル・左派が引く「寛容」の限界を越えて発言する朝鮮人(佐藤優はOKだ、という「空気」を読まない朝鮮人)は、まさに<嫌韓流>と同様に、「不寛容」にあしらわれる対象となる。それが「絶対に許せません」(佐藤)とか「目も当てられません」(岩波関係者)という「不寛容」のことばに見事に表れている。そういう意味で、<佐藤優現象>は、<嫌韓流>と同じ土壌の上に成り立っているのである。

こう考えると、私が論文で、<佐藤優現象>が志向する国家体制は「日本国民の一体性」(佐藤の言葉)を守るため、ネット右翼のガス抜きとして<嫌韓流>を黙認するだろうと述べたのは、不十分だったということになる。むしろ、そうした国家体制は、<嫌韓流>を不可欠の要素として成立するというべきであろう。論文でも指摘したが、実際、<佐藤優現象>とその同質の現象を声高に批判しているのは、在日朝鮮人くらいであって、こうした傾向が今後も続いた場合、<嫌韓流>の話法による排除が極めて効果的であることは疑いない。

この記事からは、こうした将来の像が透けて見える。こうした(現段階も含めた)「体制」を突破するには、「日本国民の一体性」なる言辞に取り込まれない日本人による、<佐藤優現象>とその同質の現象を批判することが活発化することが必要不可欠だ。今後に期待するとともに、これまで使われてきた「日韓」または「日朝」の「連帯」は、こういう時にこそ使われるべきではないかと私は考える。

(金光翔)


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[ 2007/12/05 12:07 ] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)


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