スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-)

『週刊新潮』の記事について⑤:「<佐藤優現象>批判」の「「佐藤優」批判」へのすりかえ 

『週刊新潮』の記事の特徴として、これまで、事実の歪曲、「岩波書店の社内問題」への矮小化、といった点を挙げた。ここでは、この記事が作り出す構図として、佐藤優を重用するリベラル・左派批判の私の論文「<佐藤優現象>批判」の論旨が、「佐藤優」批判にすりかえられることを指摘する。

まず述べておかなければならないのは、私の論文の主題は、<佐藤優現象>批判であって、「佐藤優」批判ではないことである。論文では確かに佐藤の言説を批判している箇所もあるが、それは、<佐藤優現象>批判という主題からの必要性に応じたものにすぎない。

『週刊新潮』の記事のタイトルは、「「佐藤優」批判論文の筆者は「岩波書店」の社員だった」であり、これ自体が既に、私の論文の論旨のすりかえである。私の論文を「佐藤優」批判だとしているからこそ、記事の最後に、私が論文で批判したリベラル・左派系の人物ではなく、佐藤が登場するのである。逆に言うと、これは、この記事が恐らく佐藤の「怒り」から始まったことを示唆している。

また、この記事の重要な特徴は、論旨がすりかえられていることのコロラリーであるが、私が論文の中で、主としてリベラル・左派を批判していることが見えにくくなっている点である。

ここで登場する「岩波関係者」は、私の論文が「社内で大問題になってい」るとするが、その「大問題」の内容は、私の論文で、岩波書店が佐藤を使うことが批判されていることの問題ではなく、佐藤優という売れっ子にヘソを曲げられるのではないかという問題と、会社内のルールを乱した問題(④で指摘したように、「上司」「社外秘」という単語をちりばめて)とされている。また、この記事全体の叙述では、岩波書店が佐藤を使うことは変だという、「左」ではない人間でも抱くような疑問は、はじめから存在しないものとされている(ここを参照)。

こうした叙述の最後に、佐藤のコメントが出てくるのだから、読者は、タイトルとも相まって、私の論文は佐藤批判が主であるという印象を持つであろう。

佐藤にとっては、私の論文が私の意図通り、「<佐藤優現象>批判」として受け取られるよりも、「「佐藤優」批判」として受け取られた方が都合がいいはずである。佐藤優と金が対立しているという図式であれば、論文は、金による佐藤への個人攻撃であるとして、リベラル・左派は高みの見物を決め込むことができ、佐藤を使い続けることができるからだ。

論文でも指摘したように、佐藤の「一流の思想家」(今回の記事の「当代一の論客」という形容も同類)という表象は、右派メディアにもリベラル・左派メディアにも佐藤が登場していることによって担保されている。リベラル・左派メディアで書くことは、佐藤の言論活動の展開にとって不可欠なのである(それにしても、どなたかそろそろ、佐藤のどこが「一流の思想家」なのかご教示いただきたい)。

こう考えると、佐藤が「激怒」しているという身振りの意味も理解できよう。佐藤の「激怒」の身振りが昂じれば昂じるほど、私の論文は、「<佐藤優現象>批判」ではなく、「「佐藤優」批判」として、論文を読んでいない人たちに表象されることになるのだ。

また、佐藤の「激怒」の身振りが岩波書店にも向けられていることも、私の論文が、「「佐藤優」批判」として表象されることを前提としたものである。佐藤が、言いがかりとしか言いようがない岩波書店への「激怒」の身振りを昂じさせることで、その身振りに基づいた、『週刊新潮』の記事のような形での騒ぎが広がることを避けるために、岩波書店としては、(『広辞苑』商戦を間近に控えているから尚更だが)早急に佐藤に屈服し、私に圧力をかけることになる。

私の論文は幸いおおむね好評で、ウェブ上でも、「自分も佐藤優を左派が使うのはおかしいと思っていた」という声が出てきている。佐藤としては、こうした声が拡大し、リベラル・左派、特に岩波書店が、佐藤を使うのに躊躇するようになることを防ぐために、こうした身振りを行なっているように思われる。

岩波書店がこけたら、次は『金曜日』がこける(ここで書いたように、『金曜日』で、佐藤はこのところ、自分の「立ち位置」を変えつつある。危機感の現れであろう)、その次は・・・という次第だ。上でも述べたように、リベラル・左派メディアは、佐藤にとっての生命線であり、動揺を防ぐテコ入れとして、佐藤の岩波書店へのこの求愛的恫喝は出てきていると思われる。無論、岩波書店が私に圧力をかけて、私による<佐藤優現象>批判を止めさせることも狙いの一つであろう。

「<佐藤優現象>批判」の、「「佐藤優」批判」へのすりかえを見抜かなければならない。問題はあくまでも、佐藤ではなく(佐藤は問題外である)、佐藤を使うリベラル・左派である。

(金光翔)

スポンサーサイト
[ 2007/12/02 17:13 ] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。