スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-)

岩波書店による私への攻撃③岩波書店のダブルスタンダード1:「「個人としての立場」と「社員としての立場」を区別することはできない」という主張 

岩波書店による、私の論文発表への「厳重注意」の問題性は、岩波書店による、私と別の社員に対する扱いにおいて明白なダブルスタンダードを用いていることから、より明らかになるであろう。

論文は個人の資格で書いたものだと主張する私に対して、岩波書店は、金が岩波書店社員であることを知っている人間は一部にいるのだから、「個人としての立場」と「社員としての立場」を区別することはできない、と主張している。こんな原理が全社会に適用されれば、公共的な言論自体が存立不可能になるだろう。だが、『世界』編集長の岡本厚氏は、沖縄戦集団自決訴訟に関する、「「美しい言葉」が人々を死へ」(『詩人会議』2007年7月号)という文章の書き出しの箇所で、以下のように書いている。

「戦後六〇年も過ぎた頃になって、座間味島の守備隊長だった元少佐らが、岩波書店と作家の大江健三郎氏を相手に名誉毀損の裁判を起こし、被告側の一員としてその裁判に関わるようになって初めて、自決の場の情景が目に浮かび、そこに追いやられた人々の恐怖、苦しみ、呻き、悲しみの声が聞こえるようになってきた。以下に記すことは、個人としての見解である。」(強調は引用者)

岡本氏は、当たり前のように(まあ、当たり前ではあるが)「以下に記すことは、個人としての見解である」と書いている。また、岡本氏は、表題の下の著者名欄の、「岡本厚」という名前の隣に、「『世界』編集長」と肩書きを明示している。「個人としての見解である」と書いたのは、この文章に関する責任は岡本氏個人が負う、という認識であろう。岡本氏は、仮にこの論文の内容について、(例えば右派メディアが)「岩波書店がこんなことを言っている」として批判してきた場合、「これは岩波書店ではなく、岡本個人の見解である」と返答するつもりであった、と思われる。

言うまでもないが、岩波書店の私に対する、「「個人としての発言」などという立場は存在しない」という立場からすれば、岡本氏の主張は成り立たない。ましてや、岡本氏は、「世界」編集長という肩書きを明示した上で文章を公表しているのであるから、岩波書店社員だという情報を明示しなかった私に比べれば、会社の立場からすれば、より一層問題であろう。

この文章の骨子をまとめると、

①「どんなに少なく見積もっても、島の最高指揮者であった隊長には、住民の大量の死に対する責任がある」のであり、「元隊長は、死んでいった住民への“負い目”をぬぐうために、たとえば「自分は命じていない」ということを言うのかもしれない」。

②しかし、元隊長の、集団自決を命じていないという発言や、元隊長が元住民に対して言ったとする「生きてともに闘いましょう」という発言(ただし、岡本氏によればこの発言は、「本人(注・元隊長)以外に聞いたものは確認されていない」)は、「生の論理であり、「戦後」の論理にほかならない」。

③「原告の背後にいるのは、「新しい歴史教科書をつくる会」だの「自由主義史観研究会」だの「靖国応援団」だの「昭和史研究所」だのであり、右翼の学者であり、弁護士である」。

④「そして、その(注・②で挙げた勢力の)背後にいるのは、いうまでもなく、「美しい国」を標榜する政権である」。

⑤「「命どぅ宝」、この言葉こそ「戦後」の精神である。私たちはこの精神を守り、伝えなければならない」。

といった形になろう。

岡本氏は、沖縄戦集団自決訴訟について、上記の文章の他にも、「沖縄「集団自決」をめぐる大江・岩波裁判の行方」(『創』2008年1月号。ただし、インタビュー形式であり、構成は別人)、「沖縄「集団自決」訴訟判決の意味」(『出版ニュース』2008年4月下旬号)という2つの文章で論じている。この2つでは、「個人としての見解である」という但し書きはないため、岡本氏は、岩波書店の見解を伝えていると考えてよいであろう(この2つの文章はそもそも、沖縄戦集団自決訴訟の報告という性格を持っている)。なお、前者での肩書きは「『世界』編集長」であり、後者での肩書きは「岩波書店編集局部長」である。

興味深いことに、『創』『出版ニュース』の文章において、上記の①~⑤のうち、類似の主張がなされているのは、③だけである。①の「どんなに少なく見積もっても、島の最高指揮者であった隊長には、住民の大量の死に対する責任がある」という見解については、『創』の文章で、大江健三郎の11月9日の弁論中の発言内容の一部として紹介されているが、岩波書店の見解としてではない。

岡本氏は、①②④⑤については、岩波書店の見解としてではなく、個人の見解として認識しているように思われる。①④は、原告や右派メディアから攻撃の材料として用いられる蓋然性が存在する性格のものであり、②⑤は、岡本氏の個人的見解としか言いようのない性格のものである。①②④⑤が『創』『出版ニュース』の文章にはなく、『詩人会議』の文章にはあるのは、『詩人会議』の文章が、「個人としての見解」として書かれていることと正確に対応している、と言えるだろう。だから、ここから分かるのは、岡本氏は、「個人としての見解」と「社員としての見解」を区別している、ということである。

会社側が、自社の係争中の裁判に関する岡本氏の『詩人会議』の文章の存在を、知らぬはずはないと思うのだが(岡本氏から書いたことを聞くなどして)、もし、岡本氏の『詩人会議』の文章の存在を知らなかった、と会社側が言い張るのならば、会社は岡本氏に当然「厳重注意」を公的に与えなければならない(なぜならば、岡本氏は、「個人としての見解」と「社員としての立場」を使い分けており、また、『詩人会議』の文章の上記の①④は、恐らく、係争中の訴訟において岩波書店が表明していない見解であり、原告や右派メディアから攻撃の材料として用いられる蓋然性が存在するものであるから)。もしそのような「厳重注意」を会社が公的に岡本氏に与え、岡本氏が了解したならば、「「個人としての立場」と「社員としての立場」を区別することはできない」などという、「言論・表現の自由」を完全に侵害する見解を、現在の『世界』編集長が認めることになるのだから、これは見ものである。

また、会社側が、岡本氏の『詩人会議』の文章の存在を知らなかった、と言い張るのならば、現にこうした「個人としての見解」を公的に発表している社員が私以外にも存在するのだから、「「個人としての立場」と「社員としての立場」を区別することはできない」という会社側の見解を、社内で周知徹底させるための措置を執らなければならないだろう。そもそも、こんな会社の見解を、私の論文発表時に認識していた社員がいるか自体が疑問であるから、本来、私への「厳重注意」について、会社が役員臨席で各部署でわざわざ臨時部会・課会を開いて全社員に報告した際に、この会社の見解も伝え、社内で周知徹底させるのが筋であろう。ところが、そんなことが行なわれた様子は、記録によっても当日の出席者からの伝聞によっても、一切ないのである。会社側は、自分たちの見解に、自信を持っていないかのようである。

恐らく、上記の、会社による岡本氏への「厳重注意」と社内での周知徹底は、ほぼ100%、行なわれないだろう。会社側の見解は、完全な「言論・表現の自由」の侵害なのだから。会社側は、自身の見解が「言論・表現の自由」の侵害であることを認識した上で、私に対して「厳重注意」を行なったのだと思われる。

私は、「岩波書店による私への攻撃②」で、会社側による、「岩波書店の著者」に関する途方もない範囲まで拡大された定義について述べ、こうした会社側の主張が、一切の社会的発言を控えろ、ということとほぼ同義であり、「こうした会社の主張は、まさに、私への誹謗中傷記事が掲載された『週刊新潮』が、書店やコンビニなどで販売されており、ここで述べたような岩波書店労働組合による私への嫌がらせが行なわれているのと全く同時期におこなわれているのだから、恐らく、こうした波状攻撃と、言論活動へのこうした制約によって、金は、自主的に退職すると会社は考えたのではないか」と推定し、私への「嫌がらせ」だった可能性が高いことを指摘した。

今回取り上げた、岡本氏の『詩人会議』の文章と私の論文への会社側の対応のダブルスタンダードは、「「個人としての立場」と「社員としての立場」を区別することはできない」などという、私への「厳重注意」の根幹に関わる会社側の主張が、「岩波書店の著者」に関する定義と同様、私への「嫌がらせ」の意図を持ち、私を自発的な退職に追い込むために作られた口実であることを強く示唆する、重要な事例であると思われる。


(金光翔)


スポンサーサイト
[ 2008/08/20 00:00 ] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。