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板垣竜太氏からのメッセージ 

朝鮮近現代史研究者であり、「メディアの危機を訴える市民ネットワーク」(メキキネット)をはじめとする社会活動でも知られる、板垣竜太氏より、メッセージをいただいた。岩波書店労働組合と私に関する状況を非常に明晰に分析されており、私自身も気付かされた点の多い文章だった。是非ご一読いただきたい。
板垣氏の優れた論文は多い。特に、最近作の「脱冷戦と植民地支配責任の追及――続・植民地支配責任を定立するために」(金富子・中野敏男編『歴史と責任――「慰安婦」問題と一九九〇年代』(青弓社)所収)で展開されている、「東アジア真実和解委員会」の構想や、そうした構想の基となっている植民地支配責任概念の定立に向けた模索は、朴裕河的な安易な「和解」ではない、別の方向を考える上で、読者に貴重な示唆を与えてくれる。
また、私は未読だが、最近、『朝鮮近代の歴史民族誌――慶北尚州の植民地経験』という大著を、明石書店から上梓されている。これから読むのを楽しみにしている。
(金光翔)
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最近、金光翔氏から岩波書店労組の動きについて事情をうかがい、唖然とした。

岩波の組合がどんな文化をもっているのかは知らないけれども、彼が指摘しているように、これは確かに集団的な「いじめ」の構図になっている。他社の社内のことを、詳しく事情も知らないでとやかくいうのは普通はあまりしないのだが、ちょっとこれはどうかと思うので一筆書かせていただく。

まず、一見些細なことのようだが、頼みこんで読ませていただいた「活動の報告」の該当部分をみると、同じ職場にいれば誰でも分かる人物について、いちいち「Kさん」と書いている。人類学や社会学等では、匿名にする際、イニシャルにするのは御法度で、単に「A」とか「B」とか書き、本人特定につながる周辺情報もなるべく伏せる。つまり「Kさん」と書くのは、匿名化のためではない。むしろこれは、「ほらあの人だよ、彼だよ、Kさんだよ」と、積極的に名指しているのである。第三者には分からないかもしれないが、「われわれ」には分かる「あの人」だ。それも、「あの問題の彼だ」というコードを共有する「われわれ」に向けて、明らかにこの文章は書かれている。それがまずもって気持ち悪い。彼
には「金光翔」という名前があるのだから、そう書けばよいではないか。

さらに驚いたのは、金光翔氏についての職場会を1回、集会を1回、彼を抜きに開いているということである。どちらも50人弱の組合員が参加している。そもそも彼が外部の組合に加入し、社内組合に脱退届を出しているのに、「組合員」とみなしつづけ、なおかつその「組合員」について議題にしつづけ、しかもその「組合員」に職場会・集会の中身を一切伝えないというのは、かなり異常な状況である。

「いじめ」が最も議論される学校現場に置き換えていえば、こういう感じか。「Kさん」はある仲良しグループが嫌でたまらないので、そのグループから距離をとる。ところが仲良しグループは、「Kさん」は引き続き「仲間」だといいつのる。さらに、「仲間をやめようとしているあいつ」とか、イニシャルで「Kさん」と書いた文書をクラス中にバラまいたりする。しかも、彼を抜きに彼の問題を話し合う場をもつが、そこで何が話されたのかをたずねても「内緒!」といって答えない。そのうえ、「君が仲間を抜けることは許されないから、会費を払え」と毎月やってくる。こんなことが起これば、学校現場なら、深刻な問題として対処せざるを得ないだろう。

それだけではない。その場で何が議論されたのかは分からないが、少なくとも労働組合を名乗り、彼を「組合員」とみなし続けるのであれば、会社からの「注意」処分について、組合としての筋を通すべきところではないか。なぜ、一編集者の言論活動が、そこに会社に関係した筆者への批判が含まれていたということで、「注意」されなければならないのか。労働者の利益を擁護する組合であれば、「カベ新聞」がどうのということはおいてでも、まずは会社のそうした姿勢に対して、「組合員」の言論の自由を主張すべきところではないのか。

私も、一応「岩波の筆者」の部類に入るのかと思うが(それとも単著はないから入らないのかな?何を基準にしているのか、よく分からない)、仮に岩波の見知らぬ編集者に活字で批判されたからといって、それは書いた当人に活字等で反論すればよいだけのことである。それでもまだちゃんと本を作ってくれそうな信頼関係にある編集者がいれば、その出版社との関係を続ければよいし、それもうまくいかなければその関係をやめればよいだけのことである。それを、いちいちつむじを曲げてみせ、本人には何も言わずに、「オタクの出版社は何なんだ」などと恫喝する筆者がいれば、その方がどうかしている。それに、そうした若手編集者の言論に対して、先輩編集者が私的に諭すぐらいならばまだ分からないではないが、会社トップが「注意」し、さらに各部署で部会・課会を開いて周知徹底したというのは、どう考えてもやり過ぎである。

いずれにしても、編集者は、個人として表現する自由をもっているし、それを本来組合は擁護すべきである。もっとも、食堂に貼りだしてあった「カベ新聞」について、それを彼が「盗用」したとか「改竄」したとか、知られてはまずい社内情報を漏らしたといかいうのであればともかく、とりたてて「社外秘」にすべき内容を含んでいるわけでもない文章をただ「引用」したぐらいで目くじらを立てて、全組合員に文書をばらまくような組合であれば、その辺も厳しいかもしれない。

一見、話は飛ぶようだが、先日、VAWW-NETジャパンのNHK裁判の最高裁判決が言い渡された。これについては、メキキネット(メディアの危機を訴える市民ネットワーク)のメールマガジンに書いたし、それを元に、これから出る『インパクション』164号にも原稿を寄せたので、詳しくはそちらを参照していただくことにして、私はそこで「組織体としてのマスメディア」が一枚岩になってしまうことを問題にした。高裁判決では、放映直前まで制作現場が取材対象者の信頼を維持していたのに、直前に政治家の意図を忖度したNHK幹部が番組をねじ曲げたことを問題視した判決だった。つまり構図としては「政治家-NHK幹部」対「制作現場-取材対象者」となっていた。ところが最高裁では「放送事業者」の内部のことは問わず、「放送事業者」対「取材対象者」の構図に全てを収めてしまった。

これでは幹部が政治家の意図をどんなに忖度しようが、それはマスメディア組織「内部」の問題としてブラックボックスになってしまうし、そのことに異議を唱えた現場からの声を踏みつぶしてしまうことになる。ところが、こんな判決に、日本放送労働組合(日放労)は「表現の自由を尊重した判断として評価したい」などとコメントを出し、いろいろ課題は残るが、「日々の業務の中で公共放送としての役割と責任を着実に果たし続けていきたい」とお茶を濁すにとどまった。何か、それと相通ずるものを感じざるを得ない。

組織順応型の、批評精神のないサラリーマン編集者だけで、今後の出版界がもつとは思えない。批評する編集者、筆者とやりあう編集者、編集を批評する編集者がいて、何が悪い。

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[ 2008/07/09 00:00 ] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)


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