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岩波書店による私への攻撃② 「鄭大均さんも「岩波書店の著者」」――実質的な退職勧告 

板垣竜太氏は、当ブログに寄せられたメッセージの中で、「私も、一応「岩波の筆者」の部類に入るのかと思うが(それとも単著はないから入らないのかな?何を基準にしているのか、よく分からない)」と記述されている。実は、岩波書店が主張する「基準」はあるのである。

<1>

岩波書店の主張を記述・批判するにあたって、まずは、岩波書店労働組合による配布文書『活動の報告 明日の課題 from JULY2007 to JUNE2008』の、「岩波書店労働組合による私への「嫌がらせ」「いじめ」について①」で引用した箇所に、私と会社のやりとりに関して誤解を与える記述があるので、その点に関して注釈しておこう。

以下の部分である。

「12月7日には拡大経協連絡が開かれ、会社がKさん(注・私のこと)に対して、『I』誌(注・『インパクション』のこと)の論文(注・「<佐藤優現象>批判」のこと)に関して口頭による厳重注意を与えたことが組合に報告されました。会社からは、岩波書店で付き合いのある著者をテーマとするその論文には、社員として節度を欠いた表現があり、社の社会的信用を傷つけると考えて、事情聴取をしたのち注意を与えたとの説明がありました。組合からは、「処分」と「注意」との違い、カベ新聞の引用に対する会社の考え方、今後の会社としての対応などを問い、その場を終えました。会社はこの件について、各部会・課会で事情説明を行いました。」(強調は引用者)

会社が岩波書店労働組合にどんな説明をしたかは知らないが、ここの「岩波書店で付き合いのある著者をテーマとするその論文」という、私の論文に関する説明自体が間違っている。私の論文のテーマは、<佐藤優現象>であって佐藤優個人ではない。その点については何度も述べているのでここではこれ以上触れない。

会社からの私への「厳重注意」で、該当すると思われる部分を記すと、私の論文における「岩波書店の著者」への批判が、著者と岩波書店との間の信頼関係を損なうことにつながる、したがって、今後、「岩波書店の著者」への批判は、やめるべきである、という会社の主張であろう。

私が論文で、会社が「岩波書店の著者」だとする複数の人物を批判したことは事実であるから、上記の引用箇所の記述は、論文の主題を誤って理解しているという点を除けば、それほど誤っていないように思われるかもしれない。だが、この記述だと、私が、岩波書店の常連執筆者である著者を批判したことを、会社が問題にしたように読めてしまう。

だが、会社側の説明、すなわち、「岩波書店の著者」の基準に関する説明は、そうではないのである。私は、2007年11月28日に、会社の言う「岩波書店の著者」とは一体どの範囲を指すのかを質問したが、会社側によれば、それは、岩波書店から1冊でも本を出版するか、または、『世界』等の岩波書店の雑誌で何回か記事を書いた人、ということになるのである(11月28日、宮部信明編集部長(取締役(当時。現在は常務取締役)、小松代和夫総務部長(取締役)答弁)。

そして、会社が問題にしている批判、すなわち、「岩波書店の著者」が執筆した本や記事への批判は、その本や記事の発行元が岩波書店であるか他社であるかは関係ない、と明言しているのである。要するに、「岩波書店の著者」が、例えば、新潮社から出した本や「諸君!」「正論」といった雑誌で書いた記事を私が批判するのも、岩波書店から出た本を批判するのと同じだ、というのである。

私が、例えば、鄭大均も『韓国のナショナリズム』を岩波現代文庫から刊行しているので(2003年)、「岩波書店の著者」ということになるのか、と質問したところ、会社は、岩波書店から本を出しているのだから、山口二郎や上野千鶴子と同じく、鄭大均も「岩波書店の著者」であり、批判を控えるべきなのは同じだ、と回答した。念のために書いておくと、私が、「私は、今後の市民としての活動において、在日朝鮮人としての立場から、鄭大均を批判対象とする可能性が高い」と述べたところ、宮部編集部長は、「まあそうだろうなと思いますね、それは」と言った上で、「岩波書店の著者」については、「イデオロギーの違いは関係ない」と述べている。

言うまでもないが、岩波書店から1冊でも本を出版するか、または、『世界』等の岩波書店の雑誌で何回か記事を書いた人間は、膨大な数に上るし、今後も増え続けるであろう。思いつくままに挙げるだけでも、

西部邁(『ケインズ』岩波書店、1980年)

福田和也(島田雅彦との対談「いま、文化を語る言葉はあるのか(1)~(6)」『へるめす』60~66号、岩波書店、1996~1997年。なお、山口昌男『「挫折」の昭和史』下巻(岩波現代文庫、2005年)で「解説」を執筆)

佐伯啓思(『イデオロギー/脱イデオロギー』岩波書店、1995年)

工藤美代子(『悲劇の外交官』岩波書店、1991年。ちなみに、元「新しい歴史教科書をつくる会」副会長であり、現在、『SAPIO』にて『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』を連載中)

義家弘介(『世界』2004年2月号「座談会 子どもたちの悲鳴がきこえる」、『世界』2004年4月号「なあ、みんな、学校は好きか?」、『世界』2004年臨時増刊(第732号)「対談 ヤンキー先生とカリスマ講師の憲法はこう教える! 」(伊藤真との対談)にそれぞれ執筆・登場。現在は自民党参議院議員)

といった人々も「岩波書店の著者」である。

もちろん、加藤典洋 http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/searchall?author=%89%C1%93%A1%93T%97m&selecter=Author

竹田青嗣(『哲学ってなんだ』岩波ジュニア新書、2002年。ほか、論文・エッセイを岩波書店刊行物で多数執筆)

橋爪大三郎 http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/searchall?author=%8B%B4%92%DC%91%E5%8EO%98Y&selecter=Author

関川夏央 http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/searchall?author=%8A%D6%90%EC%89%C4%89%9B&selecter=Author

といったところは、文句なく「岩波書店の著者」だ。

売れっ子でいえば、

坪内祐三(『日本近代文学評論選』全2冊(岩波文庫、2003・2004年)を編集。山口昌男『「敗者」の精神史』下巻(岩波現代文庫、2005年)で「解説」を執筆)

内田樹 ((『岩波 応用倫理学講義 5 性/愛』(岩波書店、2004年)において、「セックスワーク」を執筆。また、「現代思想のセントバーナード犬」(『図書』2003年4月号)も執筆)

といったところも「岩波書店の著者」になるのではないか。

田原総一郎 (『世界』2000年1月号「佐高信の日本国憲法の逆襲(1)田原総一朗」(佐高信との対談)、『世界』2008年7月号「水面下の交渉は始まっている」)

宮崎哲弥 (『世界』1997年4月号「対談 死に「自己決定権」はありうるか」(小松美彦との対談)、『世界』第668号1997年11月号 「「日の丸・君が代」は必然ではない」)

あたりはグレーゾーンで、

丸川珠代 (『世界』2004年11月号「草の根の保守主義 ルポ ブッシュを支持する人びと」)はもう一歩というところか。

また、物故者はどうなるのか。この人々も批判を控えるべき「岩波書店の著者」になるのか。もちろん、この定義でいけば、小林秀雄も江藤淳も「岩波書店の著者」であり、ただでさえ膨大な「岩波書店の著者」はさらに膨大になることになる。

いずれにせよ、会社の主張では、一切の社会的発言を控えろ、ということとほぼ同じではないか。

会社側は、本気でこのような途方もない主張をしているのだろうか。私には、多分、真意は別にあるのではないか、と考えている。だいたい、もし本気でこのように考えているとしたら、会社は、私への「厳重注意」について、役員臨席の下、各部署でわざわざ臨時部会・課会まで開いて全社員に報告しているのだから(この件については、、「岩波書店による私への「厳重注意」について①」の「(注1)」で少し触れた)、その場でこの「岩波書店の著者」の範囲について言及し、社員の注意を呼びかけるはずだが、そんなことが行なわれた様子は、記録によっても当日の出席者からの伝聞によっても、一切ないのである。

会社は、これだけ途方もないレベルまで「岩波書店の著者」の範囲を広げながら、しかも、社員ではなく個人としての立場からの言論活動は認められないと主張し、今後、会社が問題だと見なす言論活動を行なった場合、今回の「口頭による注意」以上の処分を行なうこともあり得ると主張しているのである。また、こうした会社の主張は、まさに、私への誹謗中傷記事が掲載された『週刊新潮』が、書店やコンビニなどで販売されており、ここで述べたような岩波書店労働組合による私への嫌がらせが行なわれているのと全く同時期におこなわれているのだから、恐らく、こうした波状攻撃と、言論活動へのこうした制約によって、金は、自主的に退職すると会社は考えたのではないか

実際に、宮部編集部長は、この時のやりとりで、「会社の社員という身分を外して、学者になられたりすれば、自由に論評なさっていいわけですよ。鄭大均さんについても同じです」と述べている。同様の、会社をやめれば問題は生じない、という主張は、同日の私との別のやりとりでも繰り返されている。

何度も言うが、「金が岩波書店の社員である以上、個人的立場からの社会的発言は認められない」という、会社の主張自体が異様なのである。例えば、沖縄集団自決訴訟で、私がもし、大江健三郎と岩波書店を訴えている原告の主張が正しい、と個人の立場からどこかの雑誌で発言し、会社が弾圧してきた場合、「思想・良心の自由」「言論・表現の自由」の侵害として大問題になるだろう。それと同じである。

私は、「岩波書店による私への「厳重注意」について① 」で、私の論文が、「岩波書店の著者の、会社への信頼を損なうことにつながる」と述べている件について、「私は論文を個人の資格で書いたのであり、そのことは論文を読めば明白であろうから(社員であるとの情報を出していないのだから)、「言論・表現の自由」を踏まえているならば、論文で批判されて「会社への信頼」をなくす「岩波書店の著者」(が仮にいるとしたら)の方が問題ではないか」と書いたが、もう一度その言葉をここで繰り返しておこう。ましてや、会社は、「岩波書店の著者」の範囲について、上記のような、途方もない主張を展開しているのである。

出版業界外の企業ですら、少しは「言論・表現の自由」に配慮するだろう。ましてやこれで言論機関である「出版社」であり、また、「リベラル」であることを売りにしている「出版社」なのである。呆れざるを得ない。

なお、会社は恐らく、私が「首都圏労働組合 特設ブログ」で執筆を行なう、ということを想定していなかったために、すなわち、外部にバレると思っていなかったために、こうした唖然とせざるを得ない主張を行なったふしがある。そのことは、以下のエピソードが示してくれるだろう。

<2>

年末一時金に関する岩波書店労働組合と岩波書店の協議が2007年11月8日に妥結し、年末一時金が、岩波書店労働組合員に12月3日に支給されることになった(岩波書店労働組合は私を組合員だと主張しているから、私にも支給される。この要求は、もちろん、一時金の二重取りを目的とするものではないし、会社側が二重に支払うこともあり得ない。会社による、一時金支給対象者の位置づけが争点となる)。首都圏労働組合は、会社がこちらの一時金要求書を受け取らなかったため、実質的な会社とのやり取りは岩波書店労働組合員への支給日後の12月5日(社長による、私への「厳重注意」があったのと同じ日)に行なわれた。

その前の回の一時金要求(2007年6月1日支給日)に関し、会社が岩波書店労働組合と妥結した後、2007年5月、首都圏労働組合は会社に一時金要求を行なった。その際の会社(小松代総務部長)の回答は、「一時金は、岩波書店労働組合員だけではなく、5月在職時の部課長を含めた職員(注・社員のこと)全員が支給対象であるから、改めてやりとりをする必要はない」というものだった。私が、それは、「岩波書店労働組合員として支給するのか、それとも、岩波書店労働組合員としてではなく、職員として支給するのかと私は小松代総務部長に確認したのだが、小松代総務部長は、言を左右にしてこの質問には明確に答えなかった。私は、この回答を、金が岩波書店労働組合員として一時金を受け取った、ということにはならない代わりに、岩波書店労働組合にとっては、金が岩波書店労働組合員として受け取っていない、ということにもならないという、玉虫色の結論だと理解した。

ところが、会社(小松代総務部長)は12月5日のやりとりでは、「一時金は、岩波書店労働組合員に支給した。だから、もし支給を要求するのならば、一旦受け取った一時金を会社に返し、再要求するように」と主張してきたのである。私が、「6月1日支給日の一時金のときは、全職員が対象であり、職員として払ったのではなかったのか」と聞いたところ、小松代総務部長は、「それは金の勘違いであり、会社は、当時から金には岩波書店労働組合員として支払ったと認識していた。全職員とは、岩波書店労働組合員と部課長のことなのだから、支給対象者は部課長を含めた5月在職時の全職員、と金に伝えただけだ。もし金が、首都圏労働組合員として一時金を要求するのならば、6月1日支給分と12月3日支給分の一時金を会社に返却した上で、改めて要求するべきだ」と述べてきた。何のことはない、私は騙されていた(馬鹿だった)わけだ。そして、「ただし、会社としては、首都圏労働組合を現在は実体がある組合とは見なしておらず、こちらが納得するに足る判断材料が揃うまで、交渉相手とする気はない」と続けた(この見解の不当性は、、「岩波書店による私への攻撃① 「首都圏労働組合 特設ブログ」を閉鎖させようとする圧力」の「(注1)」参照) 。私は、その場はそれで引き下がった。

そこで、私は、他の首都圏労働組合員とともに、地方労働委員会の認可を得る準備を進めることにした。

ところが、12月14日、私は小松代総務部長から呼び出された。何事かと思いきや、小松代氏は、「12月3日支給の一時金の件だが、改めて検討した結果、組合員に準じて、職員として支払ったということにすることになった」と伝えてきた。「見解を変えたのか」と聞くと、「そうです」という。また、6月1日支給分についても、「その時に遡って、岩波書店労働組合員ではなく、職員として払ったということに決定した」と述べた。

私は絶句して、「なぜ見解を変えたのか。もしくは、12月5日の会社の見解は、会社側の勘違いだったということか」と聞いたが、それに対して小松代総務部長は、「勘違いではない。変えた理由については、ここでは変えたということしか伝えられない。12月5日以降の種々の検討の結果、支給の意味を変えたということだ」と回答した。

なんとまあ、『広辞苑』を出版しているにもかかわらず、<ことば>に軽い会社なのだろうか。12月5日の、小松代総務部長の諸発言は一体なんだったのか。

会社が見解を変えた、恐らく唯一にして最大の理由が、実は、ある。それは、「首都圏労働組合 特設ブログ」が、この前日の12月13日朝に、「『週刊新潮』の記事について⑧:岩波書店労働組合による「嫌がらせ」を容認する岩波書店」を掲載したことである。

そのことは、「岩波書店による私への攻撃① 「首都圏労働組合 特設ブログ」を閉鎖させようとする圧力」でも書いたが、この日の小松代総務部長のやりとり時に、「『週刊新潮』の記事について⑧:岩波書店労働組合による「嫌がらせ」を容認する岩波書店」について、会社と私とのやりとりが出ていたこと自体を問題にし、そうした記事が掲載されている状態では、対話はできないと主張していることからも推定できる。この主張が、会社による、自らの人権侵害を棚にあげた、守秘義務の問題へのスリカエでしかないことは既に述べたが、要するに、会社としては、自分たちの私への攻撃が、外部に出されるのを恐れたわけである。この、12月14日の「見解の変更」も同じことだ。会社は、ブログで自分たちの見解が大っぴらにされないよう、下手に出てきたわけである。だが、逆にこれでは、12月5日の会社側の諸発言が、私への「嫌がらせ」だった、ということを会社自ら認めているに等しいではないか。倫理的な問題を議論する以前に、その稚拙さに唖然とするほかない。

<3>

さて、ここで、「岩波書店の著者」の問題に戻ろう。あの途方もない「岩波書店の著者」の定義は、一体何だったのだろうか。上記のエピソードから考えると、それは結局、私を自主的に退職させるための、12月5日の小松代総務部長発言と同様の、私への「嫌がらせ」だったのではないか。この一連の、一時金要求をめぐる会社の立場の豹変振りを見る限り、私にはそのように思われる。

注意すべき点は、岩波書店による、こうした、「岩波書店の著者」の定義の途方もないレベルまでの拡大や、一時金要求をめぐる会社の立場の迷走は、決して、一部の役員の問題ではないことである。こうした判断・決定を下した役員のうち、山口昭男代表取締役社長は、元『世界』編集長(1988~1996年)であり、井上一夫営業部長(取締役)は、元岩波新書編集長(1990年代の数年間)であり、小島潔編集部長(取締役)は、前『思想』編集長(1993~1999年、2006~2007年)である(元『世界』編集部員でもある)。だから、これはまさに「戦後民主主義」の限界性、もしくは変質の露呈という問題として考えられるべきだろう。

なお、大江健三郎と安江良介の対談本、『『世界』の40年』(岩波ブックレット、1984年)で、当時、「岩波書店取締役、編集部長、兼『世界』編集長」(奥付より)だった安江は、清水幾太郎の60年安保後の「反転」後の発言について、「グロテスク」と批判し、清水について、「レトリックが先に出て、からまわりしてきた知識人」と論評している。清水は当時存命中であり、また、当時刊行されていた岩波新書、岩波文庫、単行本の著者・訳者である。紛れもない、会社が言うところの「岩波書店の著者」である。ところが、安江が「厳重注意」の対象になったという情報は寡聞にして知らない。また、安江が、「岩波書店の著者」への批判に躊躇しているようなそぶりも見られない。

ちなみに、同書で安江は、「戦前に、灰色から暗黒の時代へと押しやられる中で、知識人も言論も膝を屈してゆきました。それは、権力の暴力によるものでしたが、しかし必ずしも権力によらずとも、多くの人々がみずから屈し、変わっていっただろうことを想像してきました」と述べている(同書、51頁。強調は引用者)。

仮に安江が存命であれば、自分の「弟子」たちのこうした振舞いを見て、安江は、戦時期に関する自らの「想像」が正しかったと得心するかもしれない。だが、安江は、自分の「弟子」たちが、「鄭大均さんも「岩波書店の著者」」として、在日朝鮮人社員に対して、鄭への批判を抑えるよう強要するようになることまでは「想像」できたであろうか。地下の安江に聞いてみたい質問である。


(金光翔)
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[ 2008/07/29 00:00 ] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

岩波書店による私への攻撃① 「首都圏労働組合 特設ブログ」を閉鎖させようとする圧力 

私は、会社とはもともと大して争う気はなかったので、「首都圏労働組合 特設ブログ」においても、会社に対しては、必要最低限だと考えた反撃だけに留めておいた。

だが、岩波書店の小松代和夫総務部長(取締役)の言動から考えれば、そうした私の抑制的な姿勢は、どうやら誤りだったようである。

私は、「岩波書店労働組合による私への「いじめ」「嫌がらせ」について①」において、「私としては、こうした岩波労組の嫌がらせに抗するという自衛の必要上、彼ら・彼女らの主張に対して公的に反論せざるを得ない」と書いた。これと全く同じ理由で、私は自衛のために、会社に対しても、会社の見解について公的に批判・反論する必要があることを、今回の小松代総務部長の言動は示してくれた、と言える。これから書く私の文章は、こうした、自衛の必要上から書かれたものであることに留意されたい。

さて、上記の記事で私は、岩波書店労働組合が、『活動の報告 明日の課題 from JULY2007 to JUNE2008』なる冊子を2008年6月6日に社内の全組合員に配布したこと、そして、その冊子での私をめぐる記述が、事実歪曲に満ちた内容であり、明らかに私への嫌がらせの意図を持って記されていることを述べた。

非常に興味深いことに、この配布とほぼ同じ時期に、株式会社岩波書店は、私への圧力を強めてきているのである。そのことをまず書いておこう。

小松代総務部長は、5月19日、一時金をめぐるやりとりの中で、私に対して、以下のように会社の立場を伝えた。

①会社は、首都圏労働組合が実体がある労働組合であるとは現時点では考えていない(注1)

②したがって、一時金の要求など、金が、首都圏労働組合員としての活動だと主張している件についても、会社が金とやりとりする際には、組合員ではなく、社員として相手をしている。金は、「首都圏労働組合 特設ブログ」なるブログで、執筆活動を行なっているが、会社としては、金が首都圏労働組合員であるとみなしていないので、金は、社員であるにもかかわらず、会社とのやりとりをブログによって外部に漏らしているということになる。

③会社としては、そうした行為を行なう社員からの質問に対しては、回答しない。

何から突っ込んでいいか戸惑うほど、支離滅裂な主張である。①の見解は、昨年11月30日に会社から聞いたことがあるが、「首都圏労働組合 特設ブログ」における私の執筆活動について、社員としての活動だと断定し、そうした行為を行なう社員からの質問には答えない、と会社が明言したのは初めてだ。

まず指摘しておくと、会社の立場からすれば、情報を「外部に漏らしている」金を、なぜ、社員の守秘義務を規定した就業規則に違反しているとして、処分の対象になるだろう。では、なぜ現時点に至るまで、処分の対象にしていないのか?

私が、「首都圏労働組合のブログでの執筆が、労働組合員ではなく、社員としてのものだ、という会社の立場からすれば、私は守秘義務に反しており、就業規則違反である、ということになるのでしょうか」と質問すると、小松代氏は少し沈黙した後、「いや、ここはそういう議論をする場ではありませんので、お答えできません」などと答えた。同日のやりとりの中で、私は、再度「首都圏労働組合のブログでの執筆は、守秘義務に反している、ということなのか」と問うたが、その際には小松代氏は、「それは仮の話ですから、見ないことにはわかりません。どういう表現で書かれるかにもよるでしょうし」などと、未来の話にしてお茶を濁した。こんな回答で逃げられると思っているのだ。

私は当然、「これまでにブログで書かれた内容に関しては、守秘義務に反していると理解しているのですか」と質問したが、小松代氏はこの質問には沈黙した後、「それに関しては、ノーコメントです」と回答した。

また、「会社は、私が情報を外部に漏らしていると主張しているが、会社が首都圏労働組合の存在を認め、金の労働組合員としての活動を認めれば、会社は私の質問に対して答えないという姿勢をやめるのか」と質問したところ、小松代氏は、「そういう仮定の質問にはお答えできない」などと答えた。官僚答弁で乗り切ろう、という姿勢が明白であろう。

言うまでもないが、もし会社が、首都圏労働組合など実在せず、「首都圏労働組合 特設ブログ」での私の執筆活動も、労働組合員としての行為ではないと本気で思っていれば、就業規則違反として私を処分するだろう。ところが、それはしないのである。そうした処分は当然、労使紛争になるが、そうなると会社は困るから、処分はしない、ということだ。

その一方、首都圏労働組合を交渉相手として認めると、ブログで自分たちの主張が伝えられてしまう。会社は、自分たちの主張に自信を持っていないらしい(それどころか、自らの主張の破廉恥さを自覚しているのかもしれない)から、ブログで自分たちの主張が公開されることをなんとかして避けなければならない。また、会社としては、御用組合としての岩波書店労働組合のみを交渉相手とする、ユニオンショップという建て前を崩したくない。こうした理由から、今回の会社の立場が出てきたのだと思われる。

また、首都圏労働組合員としての活動を認めない、と宣言することによって、私を萎縮させ、この「首都圏労働組合 特設ブログ」における私の執筆を控えさせたい、また、会社関係の記事をできれば削除させたい、という意図も働いているだろう。それどころか、なんと会社は、2007年12月14日の小松代総務部長答弁において、その前日に「首都圏労働組合 特設ブログ」にアップされた記事「『週刊新潮』の記事について⑧:岩波書店労働組合による「嫌がらせ」を容認する岩波書店」について、会社と私とのやりとりが出ていたこと自体を問題にし、そうした記事が掲載されている状態では、対話はできないと主張しているのである(注2)。会社は、組合費の徴収の件について、金とは、ブログで公開されることが前提で会話したわけではないから、ブログで書くのはおかしい、などと主張しているのだ。

その記事を見れば明らかなように、会社は、労働基準法の職場環境配慮義務を負っているにもかかわらず、また、行政機関から注意を受けているにもかかわらず、不当であることが明らかな岩波書店労組による私への社内での組合費徴収行為を黙認し、また、行政機関による「あっせん」の提案すら拒否しているのである。会社は、「会社とのやりとりをブログによって外部に漏らしている」などと私を批判するが、上記の記事を見れば明らかなように、会社とのやりとりに関する私の記事は、会社による私への人権侵害に抗議するために書いているのである。会社は、自らの人権侵害を棚にあげて、それを守秘義務の問題にすりかえ、回答を拒否しようとしているのだ。最低の倫理感覚であり、呆れた隠蔽体質であると言わざるを得ない。

いずれにせよ、上記の、私と小松代氏のやりとりにおいて、小松代氏が私の質問に答えられていないことは明らかだろう。会社側の主張が支離滅裂であるということを、自分から白状しているようなものだ。

今回の会社の主張は、特定の社員に対して差別的に取り扱うことを、岩波書店が公然と宣言したという意味で、極めて重要なものである。

念のために注釈しておくと、会社が仮に、私が「外部に情報を漏らしている」として処分の対象にした場合は、労使紛争にはなるとしても、差別的な取り扱い、ではないのである。

また、首都圏労働組合とは交渉したくない、と会社が考えている場合、金の、社員としての会社への質問には応じるが、首都圏労働組合員としての会社への質問には答えない、という立場もありえよう。もちろんこの場合も労使紛争になるが、社員としての金への差別的取り扱い、ではないのである。

ところが今回、会社は、社員としての金の質問には応じない、と言っているのだから、これが、私に対する、他の社員との差別的取り扱いであることは明らかである。

「岩波書店労働組合による私への「いじめ」「嫌がらせ」について①」を読まれた読者の中には、ここで、岩波書店労働組合の私への扱いを思い出す人もいるであろう。そこで私は、岩波書店労働組合が私に対して差別的な取り扱いを行なっていること、田村真理委員長及び執行委員会が、私の質問に対して、「一切答えない、というのが回答」という態度を貫いたこと、そして、そうした態度をとったのは、「言質を取られるようなことを発言して、首都圏労働組合のブログで書かれるとまずい」と考えたからだと思われることを指摘した。

今回の小松代氏の私への対応や発言が、こうした、田村委員長及び執行委員会の私への姿勢と、ほぼ完全に同じ形をしていることは明らかであろう。壮観ですらある。ある集団が、お互い同士で同型的な方向に思考を促進しあい、外部から見れば恐ろしく歪んだ思考様式になることは、往々にしてあることだろうが、この、小松代氏と田村氏の私への対応及びその論理の同型性は、そうした事例の最たるものであろう。労使一体とは、思考様式までが一体化することなのである(こうした一体化を示す例は、後日さらに追加する)。

だから、岩波書店労働組合について、「岩波書店労働組合による私への「いじめ」「嫌がらせ」について①」で書いた以下の文章は、そのまま、小松代氏及び岩波書店にも当てはまる。

「岩波書店労働組合は、「個人に対する差別的な取扱いはよくない」という、最低限の社会意識が欠落しているのである(ハンナ・アレントの有名な言葉を借りれば、「人権」の根底を支える、「諸権利を持つ権利」をこの連中は否定しているわけである)。」

「自分たちが個人に対して差別的な取扱いを行なっていることが書かれるのは社会的にまずい、という認識が欠落している・・・最低限の政治的リアリズムすらないのだ。」

さて、冒頭で私は、今回の小松代氏の私への圧力が、岩波書店労働組合による私への攻撃と時期を同じくしていることを指摘した。

私は、御用組合たる岩波書店労働組合が、私の件に関して、会社側の内々の許可もなく、勝手に動くことはないと見ているので、今回の岩波書店労働組合による私への攻撃も、会社が煽ったか、ゴーサインを出したかのいずれかだろうと考えている。笑えることに、岩波書店労働組合による私への組合費の徴収にあたっては、以前は執行委員が私の勤務中に私の座席までやってきて、支払うよう督促していたのに(これについては「『週刊新潮』の記事について⑦:記事の尻馬に乗る岩波書店労働組合」参照)、「首都圏労働組合 特設ブログ」開設以降は、わざわざ私の不在中に組合費請求書を私の席に置いていくようになっている。組合費徴収担当の執行委員が、小松代氏と昵懇の間柄であるから、こうした徴収方法の変質には、金に会社への攻撃材料を与えたくないという、会社側の意図が反映されている、と見るのが自然であろう。

仮に、岩波書店労働組合による私への攻撃が、会社とは無関係に行なわれたとしても、会社が、この5月半ばから、私への圧力を強めてきたという事実は残る。会社としては、ほとぼりはもう冷めた、もうそろそろ再攻撃可能だ、と考えたのだろう。

会社への私の抑制的な姿勢は、誤りだったようだ。これから何回かに分けて、昨年末を中心とした、岩波書店の私に対する攻撃を記述し、批判していく。


(注1)会社は、首都圏労働組合に実体があると判断する、規約などの材料を自分たちは持ち合わせていないと言っているが、では規約を渡せばいいのか聞くと、それはあくまでも検討材料の一つだ、とのことである。組合に実体があると認める客観的な基準を示さず、実体があるかを判断する主体はあくまでも会社側、という論理なのだ。労使対等という、労働法の基本原則から乖離していることは言うまでもない。こんな論理ならばいくらでも「実体があると判断する」ことを先延ばしできるから、実際には、会社が、首都圏労働組合が労働委員会による資格審査に通って、法人として不当労働行為の救済申立ができるようになるまで、「実体があると見なさない」ということだろう。

(注2)ただし、会社はこの時は、今回の主張の②のように、金が「首都圏労働組合員としての活動だと主張している件についても、会社が金とやりとりする際には、組合員ではなく、社員として相手をしている」、金が「社員であるにもかかわらず、会社とのやりとりをブログによって外部に漏らしている」とまでは言ってきておらず、今回の主張の①もこの時のやりとりでは発言されていない。


(金光翔)
[ 2008/07/23 00:00 ] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

板垣竜太氏からのメッセージ 

朝鮮近現代史研究者であり、「メディアの危機を訴える市民ネットワーク」(メキキネット)をはじめとする社会活動でも知られる、板垣竜太氏より、メッセージをいただいた。岩波書店労働組合と私に関する状況を非常に明晰に分析されており、私自身も気付かされた点の多い文章だった。是非ご一読いただきたい。
板垣氏の優れた論文は多い。特に、最近作の「脱冷戦と植民地支配責任の追及――続・植民地支配責任を定立するために」(金富子・中野敏男編『歴史と責任――「慰安婦」問題と一九九〇年代』(青弓社)所収)で展開されている、「東アジア真実和解委員会」の構想や、そうした構想の基となっている植民地支配責任概念の定立に向けた模索は、朴裕河的な安易な「和解」ではない、別の方向を考える上で、読者に貴重な示唆を与えてくれる。
また、私は未読だが、最近、『朝鮮近代の歴史民族誌――慶北尚州の植民地経験』という大著を、明石書店から上梓されている。これから読むのを楽しみにしている。
(金光翔)
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最近、金光翔氏から岩波書店労組の動きについて事情をうかがい、唖然とした。

岩波の組合がどんな文化をもっているのかは知らないけれども、彼が指摘しているように、これは確かに集団的な「いじめ」の構図になっている。他社の社内のことを、詳しく事情も知らないでとやかくいうのは普通はあまりしないのだが、ちょっとこれはどうかと思うので一筆書かせていただく。

まず、一見些細なことのようだが、頼みこんで読ませていただいた「活動の報告」の該当部分をみると、同じ職場にいれば誰でも分かる人物について、いちいち「Kさん」と書いている。人類学や社会学等では、匿名にする際、イニシャルにするのは御法度で、単に「A」とか「B」とか書き、本人特定につながる周辺情報もなるべく伏せる。つまり「Kさん」と書くのは、匿名化のためではない。むしろこれは、「ほらあの人だよ、彼だよ、Kさんだよ」と、積極的に名指しているのである。第三者には分からないかもしれないが、「われわれ」には分かる「あの人」だ。それも、「あの問題の彼だ」というコードを共有する「われわれ」に向けて、明らかにこの文章は書かれている。それがまずもって気持ち悪い。彼
には「金光翔」という名前があるのだから、そう書けばよいではないか。

さらに驚いたのは、金光翔氏についての職場会を1回、集会を1回、彼を抜きに開いているということである。どちらも50人弱の組合員が参加している。そもそも彼が外部の組合に加入し、社内組合に脱退届を出しているのに、「組合員」とみなしつづけ、なおかつその「組合員」について議題にしつづけ、しかもその「組合員」に職場会・集会の中身を一切伝えないというのは、かなり異常な状況である。

「いじめ」が最も議論される学校現場に置き換えていえば、こういう感じか。「Kさん」はある仲良しグループが嫌でたまらないので、そのグループから距離をとる。ところが仲良しグループは、「Kさん」は引き続き「仲間」だといいつのる。さらに、「仲間をやめようとしているあいつ」とか、イニシャルで「Kさん」と書いた文書をクラス中にバラまいたりする。しかも、彼を抜きに彼の問題を話し合う場をもつが、そこで何が話されたのかをたずねても「内緒!」といって答えない。そのうえ、「君が仲間を抜けることは許されないから、会費を払え」と毎月やってくる。こんなことが起これば、学校現場なら、深刻な問題として対処せざるを得ないだろう。

それだけではない。その場で何が議論されたのかは分からないが、少なくとも労働組合を名乗り、彼を「組合員」とみなし続けるのであれば、会社からの「注意」処分について、組合としての筋を通すべきところではないか。なぜ、一編集者の言論活動が、そこに会社に関係した筆者への批判が含まれていたということで、「注意」されなければならないのか。労働者の利益を擁護する組合であれば、「カベ新聞」がどうのということはおいてでも、まずは会社のそうした姿勢に対して、「組合員」の言論の自由を主張すべきところではないのか。

私も、一応「岩波の筆者」の部類に入るのかと思うが(それとも単著はないから入らないのかな?何を基準にしているのか、よく分からない)、仮に岩波の見知らぬ編集者に活字で批判されたからといって、それは書いた当人に活字等で反論すればよいだけのことである。それでもまだちゃんと本を作ってくれそうな信頼関係にある編集者がいれば、その出版社との関係を続ければよいし、それもうまくいかなければその関係をやめればよいだけのことである。それを、いちいちつむじを曲げてみせ、本人には何も言わずに、「オタクの出版社は何なんだ」などと恫喝する筆者がいれば、その方がどうかしている。それに、そうした若手編集者の言論に対して、先輩編集者が私的に諭すぐらいならばまだ分からないではないが、会社トップが「注意」し、さらに各部署で部会・課会を開いて周知徹底したというのは、どう考えてもやり過ぎである。

いずれにしても、編集者は、個人として表現する自由をもっているし、それを本来組合は擁護すべきである。もっとも、食堂に貼りだしてあった「カベ新聞」について、それを彼が「盗用」したとか「改竄」したとか、知られてはまずい社内情報を漏らしたといかいうのであればともかく、とりたてて「社外秘」にすべき内容を含んでいるわけでもない文章をただ「引用」したぐらいで目くじらを立てて、全組合員に文書をばらまくような組合であれば、その辺も厳しいかもしれない。

一見、話は飛ぶようだが、先日、VAWW-NETジャパンのNHK裁判の最高裁判決が言い渡された。これについては、メキキネット(メディアの危機を訴える市民ネットワーク)のメールマガジンに書いたし、それを元に、これから出る『インパクション』164号にも原稿を寄せたので、詳しくはそちらを参照していただくことにして、私はそこで「組織体としてのマスメディア」が一枚岩になってしまうことを問題にした。高裁判決では、放映直前まで制作現場が取材対象者の信頼を維持していたのに、直前に政治家の意図を忖度したNHK幹部が番組をねじ曲げたことを問題視した判決だった。つまり構図としては「政治家-NHK幹部」対「制作現場-取材対象者」となっていた。ところが最高裁では「放送事業者」の内部のことは問わず、「放送事業者」対「取材対象者」の構図に全てを収めてしまった。

これでは幹部が政治家の意図をどんなに忖度しようが、それはマスメディア組織「内部」の問題としてブラックボックスになってしまうし、そのことに異議を唱えた現場からの声を踏みつぶしてしまうことになる。ところが、こんな判決に、日本放送労働組合(日放労)は「表現の自由を尊重した判断として評価したい」などとコメントを出し、いろいろ課題は残るが、「日々の業務の中で公共放送としての役割と責任を着実に果たし続けていきたい」とお茶を濁すにとどまった。何か、それと相通ずるものを感じざるを得ない。

組織順応型の、批評精神のないサラリーマン編集者だけで、今後の出版界がもつとは思えない。批評する編集者、筆者とやりあう編集者、編集を批評する編集者がいて、何が悪い。

[ 2008/07/09 00:00 ] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)


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