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岩波書店による私への「厳重注意」について① 

私は11月28日(『週刊新潮』発売日1日前)に、会社から、私の論文が、「著者・読者・職場の信頼関係を損なうものであり、岩波書店を成り立たせる存立基盤を掘り崩すものだと考える」との見解を伝えられ、それ以後、何度かやりとりを行なった。その結果、12月5日、岩波書店(社長)より、今回の論文の発表について、「口頭による厳重注意」を受けた。「社員でありながら、あの論文を公表したことは、岩波書店の社会的な信用を傷つけた。今後はこのような行為は慎んでほしい」とのことであった(注1)。

私は、この会社の「口頭による厳重注意」および一連のやりとり(注2)での会社の見解のいくつかには異議を唱えざるを得ない。以下、問題点、興味深い点を取り上げる。

まず取り上げたいのは、私の論文によって、論文で名前を挙げられた馬場公彦の「仕事がやれなくな」ったとする、11月28日の会社の発言である(会社側出席者は、編集部長(取締役)、総務部長(取締役))。

編集部長は、「金の論文は、著者・読者・職場の信頼関係を損なうものであり、岩波書店を成り立たせる存立基盤を掘り崩すものだと考える」と述べ、「職場の信頼関係を損なう」ことについて説明した。以下は、その点に関するやりとりである。
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編集部長(以下、編)「社員が社員を外で公然と批判するのは会社が困るということです」

金「会社が困るというのは?」

編「岩波書店に対して、読者・著者が非常に困惑するということだ。現実に、馬場君(注・私が論文で何度か文章を引用した馬場公彦氏。引用の一部は、⑦の注3参照)も著者と仕事をしているわけだけれど、こういうふうに書かれるわけだから、同じ社員の同僚から。仕事がいかにやりにくくなるかということですよ。仕事がやれなくなるんですよ、うまく。馬場君と佐藤さんはこういう関係で、佐藤みたいな右翼みたいなやつを引きずりこんだのは馬場だ、と社員が批判してると、馬場君はね、ひょっとしたら佐藤さんに関して批判的な著者だってつきあうわけだから、「え、そんな人だったのか」というふうに思うこともあるし、とにかく非常にやりにくいことは間違いないわけですよ。編集者は、著者といろいろ共感をもって仕事をするけれども、著者と編集者は全く一体化しているというわけではなくて、著者の見解を丸ごと100パーセント是としているわけではないわけですよ。こんな形で馬場君の名前が出されて、社内から批判されたら仕事をやりにくいことは間違いないですよ。そう、私は思っています、会社としては」

総務部長「会社としても、そういう見解です」
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私は、会社のこの発言に唖然としてしまった。編集部長の発言を読めば、会社が、馬場氏が「仕事がやれなくなる」理由として、社員が社員を批判するという点(注3)よりも、馬場氏が佐藤と懇意にしていることを私が書いた点を重くみていることは明らかだろう。「会社は、要するに、馬場氏と佐藤との仲をなるべく隠したかったのに、私が暴露したから、佐藤に批判的である書き手と馬場氏が、仕事ができなくなったではないか、と言いたいわけである。

だが、それは、馬場氏及び会社の問題ではないか。馬場氏が、佐藤に批判的な書き手に、佐藤がいかに素晴らしいか、佐藤を岩波書店が使うことがなぜ必要か、を説明すればいいだけの話である。また、この編集部長によれば、佐藤は、「岩波書店のかなり中心的な著者の一人」(11月30日の私への発言)らしいから、「佐藤さんに関して批判的な著者」に対しては、この編集部長(馬場氏の上司でもある)が、会社にとって佐藤がいかに大切な存在かを語ってもよいのではないか。はっきり言えばいいではないか。

<仕事ができない>のは、佐藤を使う理由が<説明できない>からではないのか。

この会社は、「言論」で説明すべきことを、隠蔽しようとし、隠蔽に協力しなかったとして私を批判しているのである。一応、言論機関なのだから、少しは恥の感覚を持った方がよいのではないか。外部にバレなければ何をやってもいい、というのではなくて。

私は⑦で、岩波書店労働組合による私への「嫌がらせ」「いじめ」を指摘したが、この編集部長の発言(私は、編集部長のこの箇所での語気の激しさに驚いたものだ。岩波書店労働組合執行委員会の集団ヒステリーぶりに、ちょうど見合っている)から考えれば、こうした「嫌がらせ」「いじめ」の背景にも、論文全体に対する編集者たちの<仕事ができない>という憤懣があったのだと思われる。執行委員の一人である『岩波講座 アジア・太平洋戦争』の担当編集者など、そりゃ危機感を持つだろう。無論、その憤懣・危機感を、会社にではなく、『週刊新潮』の記事の尻馬に乗って私にぶつけてくるところに、この人たちの悲惨さがある。

また、そもそも、佐藤と馬場氏の関係など、佐藤や馬場氏自身がいくらでも書いているではないか。佐藤は『獄中記』(岩波書店)の終章では、馬場氏との付き合いについて、1頁近くに渡って書いているし、そこでの記述「そもそも筆者(注・佐藤)のデビュー作である『国家の罠』も馬場さんが「佐藤さんが体験したことは日本のナショナリズムについて考えるよい材料となるので、是非、本にまとめるべきだ。時代に対する責任を放棄してはならない」と「最後の一押し」をしてくれなければ、新潮社から本を出すという決断を私はできなかったと思う」とほぼ同じ文章は、『国家の罠』にもある(398頁)。

また、馬場氏は、岩波書店のホームページの『獄中記』に関するページで、「編集者からのメッセージ――佐藤優とは誰か?」なる文章を書いており、「彼(注・佐藤)の不自由さに倣って酒断ちを試みた」、「獄中記を通して佐藤さんの気高い憂国の士としての姿が迫ってきたとき,この作品は僕にとっては単なる記録文学としてではなく,我が行く末への導きの書としての光彩を帯びはじめたのだ」とまで書いている。私が改めて暴露するものなど、何もないではないか。論文を読めば分かるように、馬場氏の文章は、<佐藤優現象>を擁護し、推進するリベラル・左派の編集者の認識を示すものとして、<佐藤優現象>を読み解くにあたって必要だと考えたために引用したものである(だから、馬場氏が私の論文に異論があるならば、「言論」で反論すべきだ、と言っているのである)。

次に取り上げたいのは、同じ11月28日の同じやりとりの中で、会社が、私の論文が、「岩波書店の著者の、会社への信頼を損なうことにつながる」と述べている件についてである。ここは、「岩波書店の著者」からの抗議が具体的にあったのかが不明確である。私は論文を個人の資格で書いたのであり、そのことは論文を読めば明白であろうから(社員であるとの情報を出していないのだから)、「言論・表現の自由」を踏まえているならば、論文で批判されて「会社への信頼」をなくす「岩波書店の著者」(が仮にいるとしたら)の方が問題ではないか。では、具体的に、そんな「岩波書店の著者」はいたのか?この件に関するやりとりを見てみよう。
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金「この会社の見解(注・「厳重注意」とは別の、論文に関する会社見解)と、見解を私に伝えるという決定は、いつ決められたのでしょうか」
編「先週の役員会で議論して決めました」
金「著者との信頼関係を失うことになるとあるが、私の論文で名前を挙げて批判されている著者から抗議または照会が具体的にあったのですか」
編「それ(注・会社の見解と、見解を金に伝えること)を決定する時点まではないです」
金「今のところはないということですか」
編「それはちょっと微妙ですね」
金「微妙?」
編「こういうことをあなたと話をしようと決定した時にはなかった」
金「その後にはあったということですか」
編「うん、そこはちょっとまだはっきり言い難いところですね」
金「私に言おうとしたというのは、木曜日(注・役員会の日)の決定ということですよね」
編「木曜日に全てを決定したということではなくて」
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会社は、役員会で議論して決めたのはこの日であると主張している日(11月22日。ただし、「木曜日に全てを決定したということではなくて」とも言っているから、ここでの会社の説明は一貫していない)以降については、著者からの抗議があったことを否定していない。この著者とは誰か?岩波書店に対して「激怒」しているという、佐藤優である、と考えるのが妥当であろう。もし会社が、実際に佐藤から抗議を受けたのならば、今回の件の社会的な重要性に鑑みて、そのことを公表すべきだろう。

この「口頭による厳重注意」に関連する会社とのやりとりにおける問題点、興味深い点については、随時、取り上げていく。

(注1)会社によれば、この「口頭による厳重注意」は、「就業規則に基づく処分」ではなく、私の「個人情報」、「プライバシー」として位置づけられるものとのことである。だが、このことは、全社員及び岩波書店労働組合には伝えたとのことであるから(12月14日、総務部長発言)、「プライバシー」でもなんでもない。

(注2)会社によれば、「厳重注意」において、私の論文を「岩波書店の社会的な信用を傷つけた」としている理由については、既に一連のやりとりの中で説明しているはずとのことであるから、これらはひとまとまりとして考える必要がある。なお、会社によれば、『週刊新潮』の記事によって生じた会社への不利益も、私が論文を発表したことに責任があるとのことであるから、この「岩波書店による私への「厳重注意」について」は、「『週刊新潮』の記事について」の続きでもある。

(注3)そもそも、この批判自体がおかしい。論文を読めば分かるように、引用した馬場氏の発言は、論文にしても壁新聞の文章にしても、公表された「言論」なのであるから、私が個人の資格で批判することは何ら問題がないはずだ。

(金光翔)
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[ 2007/12/19 00:14 ] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

『週刊新潮』の記事について⑧:岩波書店労働組合による「嫌がらせ」を容認する岩波書店 

岩波書店労働組合(以下、岩波労組)の私に対する「嫌がらせ」は、今にはじまったことではない。より大きな問題は、株式会社岩波書店が、こうした岩波労組による私への「嫌がらせ」を、容認していることである。

私は、⑦で述べたように、既に岩波労組に内容証明郵便で脱退届を出している。組織への「脱退の自由」の観点から、労働組合からの脱退は労働組合の承認を待つことなく、脱退届を出すだけで成立することは、判例上、確定していることである。ところが、岩波労組は、私の脱退を認めず、毎月、給与支払日前後に、私の職場まで執行委員が押しかけてきて、組合費を支払うよう要求してくる。

その度に私は支払いを断っており、私としては、組合費を今後払う気は一切ないのだから、組合が私を除名すればいいだけの話であること、こちらが脱退届を出しているにもかかわらず、職場にまでおしかけてきて組合費の支払いを要求するのは不当であり、迷惑であることを岩波労組に伝えているにもかかわらず、一向に直らないまま、今日に至っている。

私が岩波労組に対して、組合費を支払わない旨を表明しているにもかかわらず、あえて除名せずに、わざわざ執行委員が職場に来て、大勢の社員がいる中、組合費の支払い要求を行なうことは、明らかな「嫌がらせ」である。岩波労組は、請求書を内容証明郵便で(笑)私に送りつけてくることもしているが、逆に言えば、これは、わざわざ職場に執行委員が来なくても組合費の請求は出来ることを意味している。岩波労組は、他にとりうる手段があるにもかかわらず(他にも、社内便を使うこともできる)、あえて、「嫌がらせ」として職場での組合費の支払い要求を行なっていると言うことができよう。

ましてや、岩波労組は、会社と岩波労組の労働協約で「組合活動は原則として執務時間外に行う」とあるにもかかわらず、ある執行委員は、執務時間内に、私の職場に組合費の請求に来た(6月25日)。私は、この執行委員と執行委員会に抗議を行なったが、執行委員会の回答は、「執務時間内の組合活動は、会社から黙認されているので、問題ない」というものだった(6月28日。回答者は、7月1日以降は新体制の下、副委員長に就任している。ちなみに「広辞苑」担当編集者)。岩波労組と会社がいかに癒着しているかを、よく示す発言である。

また、請求に来たこの執行委員に対しての抗議は、メールで行なったのだが、返事がないので電話で確認したところ、「組合活動の件に関して会社のアドレスを使ったメールに対して答える必要はない」とのことであった。なお、執行委員会もこの回答を追認している。私は唖然とした。なぜならば、これまでの岩波労組の諸活動(執行委員会も含む)の相互連絡、やりとりは、会社のアドレスを使ったメールで行われてきているからである。要するに、執行委員会は、私に組合員として、組合費を支払うよう要求しておきながら、組合員に岩波労組が認めている組合活動への会社アドレスのメールの使用を、私に対してのみ拒否しているのである(私自身は、自分が岩波労組の組合員だと認めていないが)。これが明白な二重基準であり、これ自体が私への「嫌がらせ」であることは歴然としている。無論、私のメールでの抗議は、「組合員」としての組合活動ではなく、「社員」として行なっているのであるから、会社アドレスのメールを使用することが当然であることは言うまでもない。

さて、より一層問題なのは、株式会社岩波書店が、岩波労組による私へのこうした「嫌がらせ」を容認している点である。

私は、岩波労組による私へのこの「嫌がらせ」について、東京都労働相談情報センター(東京都産業労働局の出先機関。以下、センター)に相談したところ、会社には、労働基準法上、職場環境配慮義務があり、労働者(すなわち私)が精神的苦痛を受けている今回の件に関し、会社が、状況を是正するための何らかの措置を講じる必要があるだろう、とのことだった。

そこで私は、10月19日、会社に文書を提出し、職場環境配慮義務の観点から、岩波労組による社内での私に対する組合費徴収行為を、止めさせるよう会社(窓口は、総務部長(取締役))に要請した。

その後、会社との何度かのやりとりを経たが、11月9日、会社から、「金からの要請の件について、岩波書店労働組合に、金との「話し合い」で解決してほしい旨申し入れた」との回答を得た。なお、会社としては、社内での岩波労組による組合費の徴収行為それ自体については、何ら価値判断を下していないとのことだった。私は既に会社に、岩波労組には社内での徴収行為をやめるよう伝えているが、全く聞き入れられないことを伝えているのだから、「話し合い」で解決するはずがないことは会社も当然了解済みだったろうが、11月15日、私は、岩波労組委員長・副委員長と、「話し合い」を行なった。岩波労組の回答は、「会社からの申し入れはあったが、岩波書店労働組合としては、これまでの徴収行為に関する方針を改めるつもりはない、社内での徴収行為は引き続き続ける」とのことであった。

同日、私は会社に対し、岩波労組との「話し合い」は不調に終ったので、10月19日の私の要請について、会社はどのような措置を執るか、改めて見解を伺いたい旨を述べた。

11月19日、会社(総務部長)は、センターから、会社・センター間で相互で確認された事実関係を踏まえた上で、今回の件について、会社が職場環境配慮義務の観点から、状況を是正する義務がある旨を伝えられた。

11月22日、会社から私に対して、「検討した結果、この件は、会社としては、岩波労組に対してこれ(注・11月9日に私に伝えられた岩波労組への申し入れ)以上の対応はしない。岩波労組と金の「話し合い」で解決すべき問題であると考える」旨の回答があった。

同日、私は、会社のこの回答をセンターに伝え、センターに、「あっせん」(センターの業務内容の一つ。センターのホームページには、「労使間のトラブルで、当事者が話し合っても解決しない場合、労働者(又は使用者)の依頼と相手方の了解があれば、当センターが解決のお手伝い(あっせん)をします」とある)を依頼した。

11月28日、センターは、会社(総務部長)に対して、センターが、会社と私との間で「あっせん」を行うことを提案したが、会社は拒否した。

以上の経緯を経て、今日に至っている。これまでの叙述から明らかのように、株式会社岩波書店は、労働基準法の職場環境配慮義務を負っているにもかかわらず、また、行政機関から注意を受けているにもかかわらず、不当であることが明らかな岩波書店労組による私への社内での組合費徴収行為を黙認し、また、行政機関による「あっせん」の提案すら拒否しているのである。これが、岩波書店労組による私への「嫌がらせ」を、会社が容認していることを意味していることは明らかであろう。

御用組合による「嫌がらせ」を容認し、行政機関の注意を無視し、行政機関の「あっせん」の提案すら拒否する岩波書店のモラルは、一般企業のレベルに到達していないのではないか。ましてや、これで、労働関係の多くの本を出版し、論文を掲載しているのだから、呆れるほかない。

なお、会社の役員の一部が、私の『インパクション』の論文を知っていることは、11月上旬には確認済みであるから、会社の姿勢は、私の論文への反応としても考える必要があろう。労働者の権利だけの問題ではなく、「思想・良心の自由」「言論・表現の自由」の問題なのだ。岩波書店のやっていることは、御用組合による「嫌がらせ」によって、社内での異論を持つものを潰そうしている行為ととられても仕方ないだろう。

無論、⑦で記述した、岩波労組による、『週刊新潮』の記事の尻馬に乗った私への「嫌がらせ」「いじめ」を、会社が容認していることは明らかである。すなわち、『週刊新潮』、岩波労組、株式会社岩波書店の提携が成立しているのだ。<佐藤優現象>は、このような土壌において成立しているのである。

(金光翔)
[ 2007/12/13 08:37 ] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

『週刊新潮』の記事について⑦:記事の尻馬に乗る岩波書店労働組合 

『週刊新潮』の記事の発表にあわせて、岩波書店の役員・職制(部課長等)以外のほぼ全ての社員を組合員とする岩波書店労働組合(私は既に脱退届を出している)、による、私への攻撃が激しくなっている。ここまでやるか、と感心させられるほどだ。

はじめに説明しておくと、岩波書店の役員8名中、4名が岩波書店労働組合の委員長・副委員長経験者であることや、岩波書店労働組合で中心的な活動を行なった後、職制になるケースが多い(なお、委員長経験者はほぼ全て職制(部課長等)に「出世」している)ことからも分かるように、岩波書店労働組合は典型的な御用組合であって、この会社は、いまどき珍しいほど労使の関係が緊密である。

さて、11月15日、岩波書店労働組合委員長と副委員長は、私が論文で「岩波書店労働組合壁新聞」(④でも書いたが、社内の食堂で、岩波書店労働組合が掲示している文書。食堂を訪れる岩波書店の執筆者や、社外関係者も見るもの)に掲載された編集者の文章を引用したことについて、岩波書店労働組合執行委員会(以下、執行委員会と略)として、「労働組合や『カベ』編集委員会、また執筆者本人に了承も得ずに、無断で社外に公表する文章に引用」したことについて、「強く注意を促す」文書(以下、『11月15日文書』と略)を手渡した(引用の可否に関する私の見解は、④参照)。

文書の宛名が私宛になっていたが、これは、「岩波書店労働組合員としての金」への文書であるという。私は前述のように、岩波書店労働組合に脱退届を出しており、組合費も払っていないのだから(今後組合費を払う意志はないこと、除名してもらって一向に構わないことを伝えているにもかかわらず、いまだに岩波書店労働組合執行委員会は、毎月給料日前後に私の職場にやってきて、組合費の支払いを要求してくる)、本来はそもそもこの文書を受け取る必要すらないのだが、二人は私に口頭でも抗議した後、これから岩波書店労働組合の職場会で、今回の経緯、「壁新聞」のルールと労働組合の見解について、説明するとのことだった。

抗議するのは組合の自由だから、放っておいたが、職場会の後、執行委員会の行動はエスカレートしていく。まず、『週刊新潮』の発売日である11月29日の夕方(『週刊新潮』の吊革広告は前日に出るから、この時点で当然、『週刊新潮』の記事の件は知られていただろう)、「壁新聞」で、執行委員会は、『カベ新聞掲載記事の引用について』なる文章(以下、『引用について』と略。約1300字)を掲載し、私を実名入りで批判する。なお、「壁新聞」は、通例、二・三の文章により構成され、社内食堂に張り出されるものだが、今回は、『引用について』だけではなく、『カベ社より皆様へ』として、「壁新聞」編集長による、私に「壁新聞」の文章を引用された「執筆者への衷心からの謝罪」を表明する文章も掲載されており、「壁新聞」の半分以上のスペースが私の論文での引用関係に割かれている。明らかな「見せしめ」である。

「壁新聞」は、ほぼ2週間ほど掲示され続けるものであるが、執行委員会はこれに止まらず、掲載から1週間後の12月6日に、「壁新聞」に掲示されている『引用について』を、組合員全員200名前後に配布している(「執行委員会ニュース 第9号」への掲載)。「壁新聞」に掲載されている文章が、同時に、わざわざ文書で改めて配布されたのは入社以来初めて見た。ここまで一つの見解(というよりも、実名入りでの個人攻撃)を「周知徹底」させようという意思は、これまで経営側との団交時にもお目にかかったことはない。明らかな、私に対する「嫌がらせ」であり、「いじめ」そのものである。

ましてやこの間、『週刊新潮』という札付きの反人権雑誌で、私は、事実の歪曲込みで、実名で差別的な攻撃をちょうど受けていたところである。執行委員会がそれを知らないはずはない。執行委員会は、この記事の尻馬に乗って、私に対して追い討ちをかける形で、こうした「嫌がらせ」、「いじめ」を行なっているわけである(注1)。

だいたい、「壁新聞」の情報の機密性という岩波書店労働組合の見解を組合員に伝えるには、11月15日に委員長と副委員長の話にあった、職場委員会等での周知徹底で済む話であるし、岩波書店の社員のうち、私以外の人間が、私のようなことを再びやる可能性がないことは、社員であれば誰の目にも明らかだ。そもそも、本気で私以外の人間による再発可能性を恐れているはずならば、社員食堂で貼り出すという形式について再考するのが当然だと思うのだが、『カベ社より皆様へ』によれば、「現在よりも秘匿性を高める措置を講ずる予定は当面ありません」という。ここには、私への「見せしめ」「嫌がらせ」「いじめ」という、執行委員会の強い意志・欲望が現れていることに疑問の余地はない。

また、「引用について」は、論理自体が支離滅裂である。以下、冒頭部分から引用しよう。

「先期カベ社(注2)は、話題の本について担当編集者に語ってもらうという趣旨のシリーズ企画において、学術一般書の馬場公彦課長に、『獄中記』に関する記事を依頼し、4月12日輪転のカベ新聞に掲載しました(注3)。/この記事が、インパクト出版会発行の雑誌『インパクション』第160号(2007年11月10日発行)に掲載された金光翔氏の論文「<佐藤優現象>批判」において、馬場氏および岩波書店の著者を批判する文脈の中で無断引用されました。このことに対して岩波書店労働組合執行委員会は強く遺憾に思うとともに、本人に文書をもって厳重に注意しました。」(太字は引用者)

問題は「無断で社外に公表する文章に引用すること」(『11月15日文書』より)なのではなかったのか。「無断で社外に公表する文章に引用」したとして私を批判していたはずが、「馬場氏および岩波書店の著者を批判する文脈の中で無断引用」したことが悪かったことになっているのだ。

興味深いことに、『11月15日文書』には、「批判する文脈」云々およびそれに類する表現は一切ない。単に、「岩波書店労働組合の「壁新聞」を無断で引用されたことに対して、遺憾の意を表明します」とある。無論、『引用について』の方が、執行委員会の本音であろう。要するに、社外がどうこうというより、自分たちが関わっている文章が私のような「敵」に利用されてしまったこと、それに激昂しているのである。

また、こうした「嫌がらせ」「いじめ」が、彼ら・彼女らの仲間である馬場氏や、「岩波書店の著者」(当然、佐藤も含まれるのであろう)を論文で私が批判していることへの反発から出てきていることも、あからさまであろう。単純な話だが、私の論文に異論があるならば、「言論」で反論すればいいだけの話である。『インパクション』もリベラル・左派からの反論投稿として歓迎するだろうし、『インパクション』が嫌ならば他の雑誌(『世界』とか)でやればよい。「言論」で反論せずに「嫌がらせ」「いじめ」で批判を封じようとする彼ら・彼女らの醜悪さ、卑小さに呆れざるをえない。

結局、執行委員会は、対立する見解であっても言論であれば、言論のレベルで闘わせるという、「言論の自由」に関する最低限の理解すらなかったことになる。④でも書いたが、馬場氏が私の引用が不当だというのであれば、馬場氏が彼の記述内容に対して下した評価に言論で反論すればよいだけの話だ。執行委員会に対して、私は、言論に関わる出版社の人間としてこの程度の認識は持つべきだ、と言っているわけではない。ましてや、「岩波書店」の社員として持つべきだ、などと言っているわけでもない。せめて、憲法が保障している権利くらい認識してはどうか、と言っているにすぎない。

なお、重要なことは、この執行委員会が、決して岩波書店で周辺的な人々ではなく、編集・企画活動の中心にある人々を多く含んでいることである。執行委員会12名の中には、『広辞苑』担当編集者(2名。うち1名は、副委員長)、新書担当編集者(単行本では、斎藤美奈子などの本を手がけてきている)、戦後歴史学系や中東関係の本を数多く担当してきた編集者、市民運動関係の本を出してきた編集者、ジュニア新書・自然科学系の本を多く担当してきた編集者、生活・健康関係の本を担当してきた編集者といった面々が含まれている。考えるべき問題は、こうした人々を中心とした執行委員会が、『週刊新潮』の尻馬に乗り、「敵」である私に対して「嫌がらせ」と「いじめ」を繰り返しているものとして設定しなければならない。

私は、ここには、<佐藤優現象>に関する重要な手がかりがあると考える。

私は論文及び⑥において、<佐藤優現象>が志向する国家体制においては、リベラル・左派は、「市民」としての生活を最優先する立場を捨て、右派とともに、「国益」を最優先する価値観を共有することになり、そうした体制に異議を唱える在日朝鮮人には<嫌韓流>に基づいた排外主義が発動される旨述べた。

今回の執行委員会の行動様式には、<佐藤優現象>が志向する国家体制において、リベラル・左派がそうなるであろう姿が示唆されている。

『引用について』には、私の行動に関して、以下の記述がある。「社員として知りえた情報を無断で社外に公表することには大きな問題があると考えます」。この認識自体が議論のスリカエであることは何度も述べたが、ここでのポイントは、「労働者」の集合体である「労働組合」の文書であるにもかかわらず、ここでは、「社員」としての立場から、「言論の自由」よりも「社益」(それも、会社が解釈する意味での「社益」)に価値を置くことを前提とした立場から記述されていることである。

執行委員会は、「労働者」としての立場よりも「社員」としての立場を優先させ、会社の解釈する「社益」絶対の価値観の下、右派メディアたる『週刊新潮』の、民族差別と事実歪曲に満ちた記事の尻馬に乗り、在日朝鮮人たる私に対して排外主義を発動しているわけである。彼ら・彼女らは、改憲後、「市民」としての立場よりも「国民」(「日本国民としての一体性」を前提とした「国民」)としての立場を優先させ、「国益」中心の価値観の下、右派との提携の下で、体制に対して批判する在日朝鮮人に対して<嫌韓流>に基づいた排外主義を発動させることだろう。

私は論文で、<佐藤優現象>を、「改憲後の国家体制に適合的な形にリベラル・左派が再編成されていくプロセス」、「「戦後民主主義」体制下の護憲派が、イスラエルのリベラルのようなものに変質していくプロセス」だと述べたが、執行委員会の行動から分かるのは、心性、メンタリティのレベルでは、「再編成」、「変質」は既に完了していることである。したがって、メンタリティのレベルで「再編成」、「変質」が完了してしまっているリベラル・左派が、現段階で、「論壇」における言説レベルで採っている形態が<佐藤優現象>だ、という言い方もできるだろう。逆に言うと、佐藤が「一流の思想家」だからリベラル・左派に使われているわけではない、ということでもある。

なお、『11月15日文書』『引用について』『カベ社より皆様へ』において、私がずっと言い続けており、論文からも読み取れるであろう問い、すなわち、「岩波書店が佐藤優を使うのはおかしくはないのか」という問いについては、一切言及されていない。やはり一貫して、「岩波書店が佐藤を使うことは変だ」という、「左」ではない人間でも抱くような疑問は、はじめから存在しないものとされている。集団転向が、集団による相互欺瞞によって、そして異論を唱えるものへの排除によって行なわれることが、今回の件によく現れている(注4)。

(注1)ブログ「アンチナショナリズム宣言」のエントリー「週刊新潮に援護される岩波書店『世界』 佐藤優という泥沼」(2007年11月29日付)では、『週刊新潮』の記事について、「週刊新潮が雑誌『世界』を擁護する事態こそ、当の論文(注・私の論文)の批判が正しいものであると証明されたといえる」と指摘されている。今回の、『週刊新潮』の記事の尻馬に岩波書店労働組合が乗って私を攻撃する事態は、この指摘の正しさに関するより鮮明な、確固とした証拠である。

(注2)
「壁新聞」編集部のこと。通常、執行委員2名および組合員若干名で構成されている

(注3)
馬場氏の文章は、『獄中記』に全く触れておらず、ここでの岩波書店労働組合執行委員会の叙述は、本来、言論として論じられるべきである馬場氏の文章を、あたかも「話題の本について」の、内部情報としての文章だったかのようにスリカエようとする印象操作である。

念のため、執行委員会が問題だと主張している、私の論文での引用部分を再掲載しよう。

「今や論壇を席巻する勢いの佐藤さんは、アシスタントをおかず月産五百枚という。左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない。」「彼の言動に共鳴する特定の編集者と密接な関係を構築し、硬直した左右の二項対立図式を打破し、各誌ごとに異なったアプローチで共通の解につなげていく。」「現状が佐藤さんの見立てどおりに進み、他社の編集者と意見交換するなかで、佐藤さんへの信頼感が育まれる。こうして出版社のカラーや論壇の左右を超えて小さなリスクの共同体が生まれ、編集業を通しての現状打破への心意気が育まれる。その種火はジャーナリズムにひろがり、新聞の社会面を中心に、従来型の検察や官邸主導ではない記者独自の調査報道が始まる。」「この四者(注・権力―民衆―メディア―学術)を巻き込んだ佐藤劇場が論壇に新風を吹き込み、化学反応を起こしつつ対抗的世論の公共圏を形成していく。」(馬場公彦、岩波書店労働組合「壁新聞」2819号(2007年4月))

(注4)
岩波書店のある役員は、「岩波関係者」について社内調査しない理由として、「「岩波関係者」としか記述がないから、社員であるか著者であるか関係業者であるか分からない」ことを挙げている(なお、岩波書店は、『週刊新潮』に対して、記事に関して抗議しないとのこと)。だが、今回の執行委員会のヒステリーと、『週刊新潮』の記事の「岩波関係者」の「社外秘のはずの組合報まで引用されているのですから、目も当てられません」という口吻から、「岩波関係者」は、組合員、もしくは組合員と価値観を共有している職制以上の社員であるように思われる。

執行委員会のヒステリーの酷さから考えてみると、佐藤の、「社外秘の文書がこんなに簡単に漏れてしまう所とは安心して仕事が出来ない。今後の対応によっては、訴訟に出ることも辞しません」という発言も、『週刊新潮』の記者経由ではなく、組合員、もしくは組合員と価値観を共有している職制以上の社員から、佐藤が直接、話を聞くなり入れ知恵されたりしたように思われる。

実際、岩波書店内には、佐藤と親密な編集者は複数いる(『獄中記』終章参照)。もし佐藤が直接社員から聞いたのであれば、⑤でこの記事が佐藤の「怒り」の身振りから始まった可能性があることを指摘したが、ますますその可能性は高くなる。また、『週刊新潮』が、佐藤を激怒させたという人物について佐藤のコメントつきで取り上げるという形式は、2007年5月17日号の記事「朝日「AERA」スター記者が「佐藤優」に全面降伏」という前例がある。今回の記事について、仮に佐藤が『週刊新潮』に持ちかけたとすれば、④で指摘した「「岩波書店への社内問題」への矮小化」、⑤で指摘した「「佐藤優批判」へのすりかえ」といったスタンスの設定にも、佐藤が関与していたと見たほうがよいだろう。執行委員会のヒステリーは、佐藤の『週刊新潮』の記事への関与の深さに関して、重要な示唆を与えてくれている。

(金光翔)
[ 2007/12/08 22:19 ] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

『週刊新潮』の記事について⑥:<嫌韓流>を必要不可欠とする<佐藤優現象> 

<嫌韓流>に関して著述のある、板垣竜太氏より、『週刊新潮』の記事について重要な指摘を含んだメールをいただいたので、該当部分をご本人の了解を得た上で、以下、引用する。
-------------------------------------------------------------------『週刊新潮』の記事の特徴として、これまでブログで挙げておられる点に加えて、記事が、<嫌韓流>の話法に則って作られている点が挙げられると思います。

「岩波関係者」の発言で興味深いのは、「金」(以下、この記事内で描かれている表象としての金さんを指す場合、現実の金さんと区別して、「金」とさせていただきます)が、「抗議」や「社と関係の深い作家の批判」を繰り返すようになったため、困って編集長が異動させたという(事実経緯としては誤りを含む)話をする前段に、「金」が、「当初は通名でしたが、何時の間にか韓国名を名乗るようになった」という話を挿入している点です(金による注:この叙述を読んで、私があたかも朝鮮人であることを隠して入社したかのように受けとめる者もあるだろうが(むしろ、そう解釈させるよう書かれているとすら言えるが)、それは事実に明白に反する)。

これは、表象のレベルでみれば、明白な言説上の効果をもたらしています。「金」の通名から韓国名(本名と言うべきでしょうが)へという変化が、「金」が岩波の「和」を乱すような非常識な「抗議」「批判」をくり返す人間になったことと、対になって語られている点において、表象のうえでは、<嫌韓流>の話法をそのまま反復する構造となっています。<嫌韓流>でも「朝鮮人」「韓国人」たちは、自らの分をわきまえず、日本社会の「和」を乱す厄介な存在として描かれているからです。

この「岩波関係者」の話によって<嫌韓流>モードにスイッチが入った読者は、次の佐藤氏のことばも、難なく同じモードで受容するでしょう。「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容です。」<嫌韓流>でも、「朝鮮人」「韓国人」たちは、しばしば興奮しながら「言ってもいないこと」をあげつらって、「滅茶苦茶」な論理で日本人を糾弾する者として描かれているからです。「クール」な「日本人」と、「火病」(<嫌韓流>系の用語)をわずらった「韓国人」「朝鮮人」という表象の構図が、ここでも鮮やかに再生産されています。

「岩波関係者」も佐藤氏も、タテマエとしては<嫌韓流>を否定するでしょう(金による注:佐藤は、「日本外交官に浸透した「嫌韓流」」(『金曜日』2006年4月14日号)で、<嫌韓流>的な認識に基づいて書かれた外交官の報告文書を批判している)。ひょっとしたら新潮の記者も、そんな意図はございません、と言い張るかもしれません。しかし言説の効果というのは、まずこうした本人の意図やタテマエとは関係なく作用するものです。どのような場で、どのような文脈で、どのようなことばが配置されているのかが、何よりも重要なのです。この記事が、<嫌韓流>の話法を用いて構成されていることは否定できないでしょう。
---------------------------------------------------------(引用終わり)

板垣氏の指摘を踏まえた上で『週刊新潮』の記事について考えてみると、仮に、「岩波関係者」と佐藤が単なる証言者であることを超えて、この記事の作成に関与しているとしたら、両者は<佐藤優現象>批判に対して、言論を用いてまともに反論せず(できず)、事実を歪曲し、<嫌韓流>に基づいたプロパガンダで<佐藤優現象>批判の声を封じようとしている、と言われても仕方がないであろう。

それだけではない。「岩波関係者」と佐藤優のコメントとが、記事という言説の上で、<嫌韓流>の話法を媒介に結びついている点は、<佐藤優現象>を考える上で、重要な問題が含まれていると思われる。

私の論文「<佐藤優現象>批判」で指摘したように、<佐藤優現象>の重要な特徴とは、在日朝鮮人(ただし、「善良」とされた在日朝鮮人を除く)を排除した上で、「日本国民の一体性」(佐藤の言葉)を守るために、諸マイノリティを取り込むことを志向する「国民戦線」である。リベラル・左派が佐藤優を使うことは、論理的には必ず自己矛盾を孕む。そのことに、リベラル・左派は内心よく気づいているからこそ、「空気」が乱されることを過敏に恐れるのである。だから、リベラル・左派が佐藤優を使うことがおかしいなどと、「空気」を読まずに(読めずに、ではない)批判する朝鮮人に対しては、「国民戦線」が構築され、そこから「お前分かっていないよ、まぁ、そうムキになるなよ」と「クール」な話法を用いて「火病」におちいった「朝鮮人」が表象上で貶められることになる。

この点は、オーストラリアの社会学者、ガッサン・ハージの『ホワイト・ネイション』(平凡社)が提示する枠組が参考になる。ハージによれば、支配的な多文化主義の論理が、レイシストと同質であるからこそ、寛容は「あっというま」に不寛容に移行する(ハージは、多文化主義が国是であるオーストラリアにおいて、1990年代、排外主義的レイシズムの台頭に対し、リベラル・左派が抵抗力を持たず、難民・亡命希望者への排他的な風潮がまたたく間に支配的となったことを念頭に置いている)。排外主義的レイシストは、自分たちの「寛容」の限界を超えている人々のみを対象にして排除を行なうのであり(<嫌韓流>も同様)、自分たちの支配を脅かさない範囲で、受容可能な(「過激」ではない)マイノリティのみ許容する構図自体は、支配的な多文化主義も同じである。

ハージの論理を応用すれば、リベラル・左派が引く「寛容」の限界を越えて発言する朝鮮人(佐藤優はOKだ、という「空気」を読まない朝鮮人)は、まさに<嫌韓流>と同様に、「不寛容」にあしらわれる対象となる。それが「絶対に許せません」(佐藤)とか「目も当てられません」(岩波関係者)という「不寛容」のことばに見事に表れている。そういう意味で、<佐藤優現象>は、<嫌韓流>と同じ土壌の上に成り立っているのである。

こう考えると、私が論文で、<佐藤優現象>が志向する国家体制は「日本国民の一体性」(佐藤の言葉)を守るため、ネット右翼のガス抜きとして<嫌韓流>を黙認するだろうと述べたのは、不十分だったということになる。むしろ、そうした国家体制は、<嫌韓流>を不可欠の要素として成立するというべきであろう。論文でも指摘したが、実際、<佐藤優現象>とその同質の現象を声高に批判しているのは、在日朝鮮人くらいであって、こうした傾向が今後も続いた場合、<嫌韓流>の話法による排除が極めて効果的であることは疑いない。

この記事からは、こうした将来の像が透けて見える。こうした(現段階も含めた)「体制」を突破するには、「日本国民の一体性」なる言辞に取り込まれない日本人による、<佐藤優現象>とその同質の現象を批判することが活発化することが必要不可欠だ。今後に期待するとともに、これまで使われてきた「日韓」または「日朝」の「連帯」は、こういう時にこそ使われるべきではないかと私は考える。

(金光翔)


[ 2007/12/05 12:07 ] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

『週刊新潮』の記事について⑤:「<佐藤優現象>批判」の「「佐藤優」批判」へのすりかえ 

『週刊新潮』の記事の特徴として、これまで、事実の歪曲、「岩波書店の社内問題」への矮小化、といった点を挙げた。ここでは、この記事が作り出す構図として、佐藤優を重用するリベラル・左派批判の私の論文「<佐藤優現象>批判」の論旨が、「佐藤優」批判にすりかえられることを指摘する。

まず述べておかなければならないのは、私の論文の主題は、<佐藤優現象>批判であって、「佐藤優」批判ではないことである。論文では確かに佐藤の言説を批判している箇所もあるが、それは、<佐藤優現象>批判という主題からの必要性に応じたものにすぎない。

『週刊新潮』の記事のタイトルは、「「佐藤優」批判論文の筆者は「岩波書店」の社員だった」であり、これ自体が既に、私の論文の論旨のすりかえである。私の論文を「佐藤優」批判だとしているからこそ、記事の最後に、私が論文で批判したリベラル・左派系の人物ではなく、佐藤が登場するのである。逆に言うと、これは、この記事が恐らく佐藤の「怒り」から始まったことを示唆している。

また、この記事の重要な特徴は、論旨がすりかえられていることのコロラリーであるが、私が論文の中で、主としてリベラル・左派を批判していることが見えにくくなっている点である。

ここで登場する「岩波関係者」は、私の論文が「社内で大問題になってい」るとするが、その「大問題」の内容は、私の論文で、岩波書店が佐藤を使うことが批判されていることの問題ではなく、佐藤優という売れっ子にヘソを曲げられるのではないかという問題と、会社内のルールを乱した問題(④で指摘したように、「上司」「社外秘」という単語をちりばめて)とされている。また、この記事全体の叙述では、岩波書店が佐藤を使うことは変だという、「左」ではない人間でも抱くような疑問は、はじめから存在しないものとされている(ここを参照)。

こうした叙述の最後に、佐藤のコメントが出てくるのだから、読者は、タイトルとも相まって、私の論文は佐藤批判が主であるという印象を持つであろう。

佐藤にとっては、私の論文が私の意図通り、「<佐藤優現象>批判」として受け取られるよりも、「「佐藤優」批判」として受け取られた方が都合がいいはずである。佐藤優と金が対立しているという図式であれば、論文は、金による佐藤への個人攻撃であるとして、リベラル・左派は高みの見物を決め込むことができ、佐藤を使い続けることができるからだ。

論文でも指摘したように、佐藤の「一流の思想家」(今回の記事の「当代一の論客」という形容も同類)という表象は、右派メディアにもリベラル・左派メディアにも佐藤が登場していることによって担保されている。リベラル・左派メディアで書くことは、佐藤の言論活動の展開にとって不可欠なのである(それにしても、どなたかそろそろ、佐藤のどこが「一流の思想家」なのかご教示いただきたい)。

こう考えると、佐藤が「激怒」しているという身振りの意味も理解できよう。佐藤の「激怒」の身振りが昂じれば昂じるほど、私の論文は、「<佐藤優現象>批判」ではなく、「「佐藤優」批判」として、論文を読んでいない人たちに表象されることになるのだ。

また、佐藤の「激怒」の身振りが岩波書店にも向けられていることも、私の論文が、「「佐藤優」批判」として表象されることを前提としたものである。佐藤が、言いがかりとしか言いようがない岩波書店への「激怒」の身振りを昂じさせることで、その身振りに基づいた、『週刊新潮』の記事のような形での騒ぎが広がることを避けるために、岩波書店としては、(『広辞苑』商戦を間近に控えているから尚更だが)早急に佐藤に屈服し、私に圧力をかけることになる。

私の論文は幸いおおむね好評で、ウェブ上でも、「自分も佐藤優を左派が使うのはおかしいと思っていた」という声が出てきている。佐藤としては、こうした声が拡大し、リベラル・左派、特に岩波書店が、佐藤を使うのに躊躇するようになることを防ぐために、こうした身振りを行なっているように思われる。

岩波書店がこけたら、次は『金曜日』がこける(ここで書いたように、『金曜日』で、佐藤はこのところ、自分の「立ち位置」を変えつつある。危機感の現れであろう)、その次は・・・という次第だ。上でも述べたように、リベラル・左派メディアは、佐藤にとっての生命線であり、動揺を防ぐテコ入れとして、佐藤の岩波書店へのこの求愛的恫喝は出てきていると思われる。無論、岩波書店が私に圧力をかけて、私による<佐藤優現象>批判を止めさせることも狙いの一つであろう。

「<佐藤優現象>批判」の、「「佐藤優」批判」へのすりかえを見抜かなければならない。問題はあくまでも、佐藤ではなく(佐藤は問題外である)、佐藤を使うリベラル・左派である。

(金光翔)

[ 2007/12/02 17:13 ] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

『週刊新潮』の記事について④:「岩波書店の社内問題」への矮小化 

 ②③では、取り急ぎ、事実関係の歪曲を正した。だが、『週刊新潮』記事の本質的な問題点は、私の論文「<佐藤優現象>批判」が、リベラル・左派全体が「国益」中心に再編されつつあることへの批判であるにもかかわらず、それを、「岩波書店の社内問題」に矮小化しようとしている点である。

 『週刊新潮』の記事は、『インパクション』第160号に掲載された私の論文のプロフィールには、「「1976年生まれ。会社員。韓国国籍の在日朝鮮人三世」としか記されていない。が、それもそのはず、彼には自らの経歴を明かせない“事情”があったのだ」とし、私が「現役の岩波書店の社員」であることが、自らの経歴を明かせなかった理由であるとする。

 だが、私が岩波書店の社員という肩書きを出さなかったのは、肩書きを出すことで「岩波書店社員の内部告発」「単なる岩波書店内部の問題」として自分の論文が読まれることを避けたかったためだ。そもそも、個人の資格で書く論文について、なぜ自らの会社の肩書きを出さなければならないのか?だいたい、リベラル・左派批判の論文に、私が岩波書店社員であることを明記していたら、「ここで書いたことは岩波書店社員としての観察・体験に基づいている。読者は私の主張を信じてほしい」と言っているようなものではないか。

 私としては、そうした先入観を与えた上ででなく、論文の論理それ自体のみにより、<佐藤優現象>が、リベラル・左派全体が「国益」中心に再編されていくプロセスであることを読者に説得したかったのであり、「自らの経歴を明かせない“事情”」など何もない。無論、『インパクション』編集部も、私が岩波書店社員であることは承知の上で掲載している。

 『週刊新潮』の記事は、「「佐藤優」批判論文の筆者は「岩波書店」の社員だった」というタイトルだけではなく、記事全体の叙述も、「岩波関係者」の発言を用いながら、この件を岩波書店社内の問題として矮小化する書き方で一貫している。頭のおかしい社員が岩波書店社内で紛争をおこし、社外に広がった事態を岩波書店が処理できず「社外秘の文書」まで漏らされ、岩波書店の管理能力のなさに佐藤優が「激怒」する、という構図である。

 「(注・金の)論文では、彼の上司も実名を挙げられ、批判されている」という記述など、そうした矮小化の典型例である。「上司」(そもそも、この人物とは同じ部署になったことがないのだが)批判ではなく、言論人でもある編集者の公開された文章が、現象を読み解くのに有意義であったから分析したまでのことだ。

 また、「社外秘のはずの組合報まで引用されているのですから、目も当てられません」という記述も矮小化の一つだ。佐藤の「論壇」の席巻によってどのような事態が起こりつつあるかを、佐藤を礼賛する立場から記述した編集者の文章の引用について、その編集者の記述内容自体ではなく、「社外秘」の文書の引用の問題として話がすりかえられている。いやむしろ、佐藤の、「社外秘の文書がこんなに簡単に漏れてしまう所とは安心して仕事が出来ない。今後の対応によっては、訴訟に出ることも辞しません」という発言を見る限り(これでどんな訴訟ができるというのか)、私の論文による<佐藤優現象>批判、佐藤批判の妥当性の問題が、「社外秘」の文書の引用の問題にすりかえられている、と言えよう。

 そもそも、労働組合の文章の引用をなぜ不当とするかが理解に苦しむ。これは、社内の食堂で、岩波書店労働組合が掲示している文書であるが、食堂を訪れる岩波書店の執筆者や、社外関係者も見るものであり、言論であることは間違いないのだから、それを著作権法の範囲内で引用することは問題あるまい。内容が内部情報や経営に関わることであればさておき、今回引用した記述内容がそれに該当しないことは明らかである。ましてや、この編集者は過去に自らの著作や論文を公刊しており、言論人でもあるのだから、私の引用が不当だというのであれば、「社外秘」がどうかという次元ではなく、私が彼の記述内容に対して下した評価に言論で反論すればよいだけの話だ。

 こうした矮小化の背景には、佐藤を重用するリベラル・左派に対して全面批判した、私の論文の影響を封じ込めようという、佐藤の意向が働いているように思われる。佐藤は私の論文について、「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容です。言論を超えた私個人への攻撃であり、絶対に許せません」と発言しているが、一体、「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書」いたところは具体的にどこなのか(論文では、佐藤の発言のほとんどに典拠を示しているので、どこを指しているのか未だに分からない)、また、どういう点を指して「滅茶苦茶」で「言論を超えた私個人への攻撃」だとしているのか明らかにすべきである。

 事実の歪曲に満ちた、問題を矮小化する記事に協力(佐藤自身がけしかけた?)することこそが、言論を超えた個人への攻撃なのであって、佐藤が私の論文に異論があるならば、岩波書店への(求愛的)恫喝などではなく、言論を用いて「反論」すればいいだけの話である。『インパクション』が嫌ならば、「超売れっ子作家」なのだから、「反論」する雑誌などいくらでもあるはずだ。

(金光翔)

[ 2007/12/01 19:43 ] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)


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