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読者からの岩波書店あてのメール 

私の個人ブログ「私にも話させて」や、「首都圏労働組合特設ブログ」の記事の読者(この方は、岩波書店の読者でもある)から、以下のメールを岩波書店宛にこの4月16日に送った旨の連絡をいただいた。この方によれば、岩波書店からの回答は、4月25日に至っても来なかったという。結局、岩波書店は、この方の質問を黙殺したようである。私の論文を賞賛してくださっていて面映いが、随所に鋭い指摘を含む大変興味深い内容だったので、ご本人の了承を得て掲載させていただく(一部、誤字・文献表記・役職名を修正した)。

この方が「岩波書店および岩波書店労働組合の言動の異様な不可解さ」として取り上げている点は、この「首都圏労働組合特設ブログ」の私の記事の読者の多くが、同様な感想を持つ点ではないかと思う。私も岩波書店がこの疑問にどう答えるか、大変興味がある。

岩波書店は、この方が言うところの「読者の不審に真面目に応じる道義的責任」を自覚して、この読者に回答した上で、こうした疑問について公的に見解を明らかにすべきだろう。文面をお読みいただければ明らかだと思うが、ここまで誠実かつ真摯に、岩波書店の行く末への憂慮すらにじませながら問うている読者からのメールに対して、一片の形式的な回答すら送らず完全に無視を決め込むのでは、出版社としての読者への最低限の誠意すら欠けている、と言われても仕方ないのではないか。

また、この方が取り上げ、批判している佐藤優の発言(「アラブの原理主義やパレスチナの極端な人たちの中から、「佐藤は日本におけるイスラエルの代弁者だ」ということで、「始末してしまったほうがいい」と言ってくる人たちが出てくるかもしれない。それはそれでかまわない。それを覚悟で贔屓しているわけです。しかしそれと同じように、アラブを贔屓筋にしている人たちは、イスラエルにやられても文句は言えないですよという話です。たとえばアルカイダ、ハマス、ヒズボラのテロリストを支援するような運動をやった場合、これはイスラエルにとって国家存亡の問題ですから、その人は消されても文句は言えない。それくらいの覚悟が求められる贔屓筋の話だと思います。)は、以前にもそれらしき発言を指摘したが、佐藤が「言論の自由」を原理的に否定していることを示す、重要な発言である。

佐藤は、自身の批判者である小林よしのりに対して、自身について「モサド(イスラエル諜報特務庁)などと「言論封殺魔」(注・佐藤のこと)が関係をもったことがあり、インテリジェンス業務の経験があるならば要注意です」などと言っているが(この発言については、「佐藤優のイスラエル擁護に嫌悪感を抱かないリベラル・左派の気持ち悪さ」でも触れた)、上記の発言から考えれば、まさにこれは「言論封殺魔」と呼ばれるにふさわしい威嚇だと言えるだろう。

この方は佐藤の発言について、「社会の公器をつかってこのような物言いの主張をする人は初めて見たように思います」(強調は引用者)と当然の感想を述べているが、岩波書店の山口昭男社長は、こうした佐藤の「言論の自由」の原理的な否定について、どのような認識を持っているのか、見解を明らかにすべきである。

なお、この方が岩波書店にメールを送った4月16日は、奇しくも、岩波書店が岩波現代文庫の新刊として、佐藤の『獄中記』を発売したのと同じ日である。岩波書店は、なぜ岩波書店が佐藤を使い続けるのかという疑問は一切黙殺して、ひたすら既成事実を作ろうとしているように見える。これは、以前から指摘しているような『金曜日』の姿勢、すなわち、佐藤をひたすら、より一層使い続けることで、あたかも自分たちが佐藤を使うことへの疑問自体が存在しないかのような<空気>を作ろうとする姿勢と、完全に同一である。自ら、疑問には回答不能であることを示しているようなものだ。

ちなみに、笑うべきことに、岩波現代文庫版の『獄中記』の企画・担当編集者である佐藤司(山口二郎と昵懇の編集者)と、単行本版の『獄中記』の企画・担当編集者である馬場公彦の2人は、共同で、『ジャーナリズムの条件』(全4巻)なるシリーズを過去に編集している。「言論の自由」を原理的に否定する人物と結託する人々が吹聴する「ジャーナリズム」とは、端的に、「ブラック・ジャーナリズム」ではないのか、という私の疑問に対して、彼らや山口社長や岩波書店の役員たちは、どのように回答してくれるのだろうか。

(金光翔)


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岩波書店代表取締役社長 山口 昭男 様

岩波書店役員 ご  一  同  様


金光翔氏の論文「<佐藤優現象>批判」が発表されてもう1年余がたちました。御社に対し、この論文をめぐって起きた問題にかんする意見を述べたメールを送らせていただくのは、これで3回目になります。またご一読いただければ幸いです。

初めに述べさせていただきますが、私は金光翔さんのブログや『首都圏労働組合』において「事実」として書かれていることは基本的に「事実」とみて差し支えないと認識しています。と言いますのは、もし岩波書店及び岩波書店労働組合にかんして事実に反した事柄が事実として記述されているのなら、皆様方は金さんのインターネット上での言論活動を承知しているとのことですから、これまでに必ず誤りの指摘なり反論なりがなされていただろうと考えます。が、管見のかぎりではこれまでのところそのような指摘を耳目にしたことはまったくなく、したがって、以下事実関係については金さんの記事を信頼した上での記述になります。

もしそうではない、これは違う、という部分がありましたら、率直にご指摘いただければありがたく存じます。

昨年12月10日、金光翔さんは『首都圏労働組合』において、「岩波書店代表取締役社長・山口昭男氏と佐藤優」というタイトルの記事をアップされました。佐藤優氏が雑誌『SPA!』(2008年12月9日号)の連載記事のなかで『首都圏労働組合』を「ユウレイ組合」と記述したことに着目・言及した内容で、そこでは佐藤氏のその見解が岩波書店の上層部がこれまで金さんに対して明らかにしてきた『首都圏労働組合』に対する見解と大変よく似ていること、そのためにもともと持っていた『週刊新潮』の「「佐藤優」批判論文の筆者は「岩波書店」社員だった」と題された記事の作成過程に岩波の上層部が関与していたのではないかという疑いをさらに強めたことが述べられています。

この部分を読んだ時、私は「アッ」と思い、なんともいえない衝撃を受けました。いくら何でも出版社が、それも岩波のように、好悪の感情は当然さまざまに存在するにしろ、創業以来今日まで良識ある出版社と社会に認知されてきたはずの出版社が、それも役員の人々が、このように自らの社員を他雑誌に売り渡すかのような行動をすることがありえるのだろうかという信じがたい気持ちがしたのです。けれども一方、金さんの文章を読みながらひしひしと感じとらないわけにはいかなかった岩波書店および岩波書店労働組合の言動の異様な不可解さは、このような見方をしてはじめて理解が可能である、これでようやく納得がいく、というような感触をうけたことも事実です。

不可解だと感じた事柄は、たとえば以下のようなことです。

①虚偽の記事を書いた『週刊新潮』に会社として抗議はしないのか、と金さんがある役員に質問したところ、「記事に虚偽があるとかないとか論じようとは思わない。会社に危害があれば別ですけど。会社に被害があるなら考えますけどね。」という回答が返ってきた。それにもかかわらず、金さんは、「私が論文を書いたから、『週刊新潮』が記事にし、それにより会社が被害を被った」ということを理由の一つとして「厳重注意」処分を受けた。

②金さんが『週刊新潮』の記事に出てくる「岩波関係者」が誰であるかについて社内調査するかどうかを会社に問うたところ、会社は「調査しない」と答えた。理由は、「岩波関係者」としか記述がないから、社員であるか著者であるか関係業者であるか分からない。

上記の①について述べますと、記事に虚偽があるかないかは問題ではない、会社に被害があるかどうかだけが問題だ、という発言は出版に携わる人の言葉とは思えません。これでは、会社すなわち役員である自分たちさえ困ることにならなければ、社員が捏造記事や人種差別に類する内容の記事を書かれようと知ったことではないということになるのではないでしょうか? 少なくともそのような憶測をされても仕方がないだろうと思います。今後また岩波の社員が『週刊新潮』などの他雑誌に捏造記事、中傷記事を書かれるようなことがあったとしたら、その場合も皆様方は今回と同様の対応をとられるのでしょうか? 「君が週刊誌に悪辣な記事を書かれることによって、どんなに精神的痛手を受けようと、名誉を傷つけられようと、会社は関知しない。なぜなら会社は被害を受けてないから。」とおっしゃるつもりなのでしょうか?

もっと驚くべきは、「(金さんが)論文を書いたから、『週刊新潮』が記事にし、それにより会社が被害を被った」という後半部分のご発言です。まず前半部分とは意味内容が逆になっています。前半では、会社は被害を受けてない(だから『週刊新潮』に抗議しない)ということだったのに、今度は会社が被害を被ったから処罰する、ということになりますが、失礼ながら、率直に言ってこれほどまでに矛盾の明白な見解を述べていたのでは、子どもにだっておかしいと思われるのではないでしょうか。しかしこの部分で最も重要なのは、論文の発表がすなわち『週刊新潮』の記事を呼んだ、元凶は論文である、という皆様方の認識そのものだと思います。この認識は非論理的なこともさることながら、あまりにも非倫理的なのではないでしょうか? それとも岩波書店の役員の方々は『週刊新潮』に対して常日頃からまったき信頼と敬意を寄せてきているということなのでしょうか? または普段はそうではないけれども、今回にかぎって『週刊新潮』はよい記事を書いた、とでも考えていらっしゃるのでしょうか? このような理解以外に、この見解の根拠、理由を合理的に説明することはできないように思えるのですが…。

金さんの論文発表とその直後の『週刊新潮』掲載の記事への御社の一連の対応を知って以来、なぜこのような対応がなされたのか、ずっと疑問をもっていましたので、「岩波書店代表取締役社長・山口昭男氏と佐藤優」を読んで以降は、「『週刊新潮』の記事に岩波の上層部が関与しているのではないか」という金さんの疑いは無理もない、もしかすると実態は金さんの推測どおりなのではないかと思っています。真相はいかがなのでしょうか? 岩波書店には、このような社員の疑惑、そしてあえて言わせていただきますが、読者の不審に真面目に応じる道義的責任があるのではないでしょうか? というのも、この件における皆様方の行動は言論機関である岩波書店にとって生命線に直結するほどの重大かつ深刻な本質的問題を包含していると考えるからなのですが。

つぎに②についてですが、記事の内容が事実であるかあるいは虚偽を含むものであるかは一応さておくとして、「岩波関係者」の発言の生々しい具象性をみると、それが著者や関係業者などの外部の人物が発した言葉であると想定することはかなり不自然であり、無理のある話のように思えます。取材当時『週刊新潮』は締め切りに迫られていたようでもあります。かりにこの件にかんする様々な情報を岩波の社員から得ている外部の人物が存在したと想定しても、締め切りが迫った限られた時間の中で、『週刊新潮』はどのようにしてそういう人の存在を知り、かつこうもすばやく情報をえることができたのかという疑問が浮かびます。そもそもこのような他社の人事や個人のプライバシーにかんして週刊誌の求めるままにさらさらしゃべるような軽率な人物は世の中にそうはいないはずです。社内調査を行わない理由としてなぜ御社がわざわざ「著者」や「関係業者」などという名称を出されたのか理解に苦しみます。かりにこの「岩波関係者」が文字どおり社外の人間だったとして、その人物が自身の判断でこのような話をしたのだとしたら、この出来事は会社にとって危惧の種になるはずではないのでしょうか。内容に虚偽があるのだとしたら、なおさらだと思いますし、これほど具体的な話ができるということは、岩波社内の人間が逐一詳細を教えていたということにもなりますから、この人物が誰であるか、会社にとってはやはり問題になるはずではないのでしょうか。

次に、この「岩波関係者」が社内の人物にまちがいないと想定して考えてみます。

ある社員が金光翔氏にかんして『週刊新潮』の取材依頼を受け(『週刊新潮』がなぜ金光翔さんに関心をもち、わざわざ記事まで作ろうとするのかという根本的疑問がありますが、これについては「佐藤優氏にかかわる論文を発表したから」という以外に回答が思い浮かびません。これは実に異常なことです)、これに対して自己の判断で取材に応じ、あのような話をしたのだと想定します。するとこれもまた岩波書店にとっては憂慮すべき事態ではないかと思えます。守秘義務の問題のみならず、金さんによるとこの「岩波関係者」の話は虚偽だということだからです。たとえば、『世界』編集部から異動になったのは、編集長から追い出されたのではなく、2006年12月4日に自分の方から「異動願」を提出したのだ、というように。

金さんのこの説明が事実なら、「岩波関係者」として週刊誌に登場して一方的に他の社員を非難・中傷する、「編集長も持て余し、校正部に異動させたのです」と虚偽の人事情報を流すなど、こういう異常な行動をなす社員の存在は、金さんの人権侵害問題にとどまらず、『世界』編集長の名誉や岩波の信用を傷つけることにもなり、本来会社にとって放置できないはずの問題ではないのでしょうか。

しかし、会社にそのような憂慮の気配は何らうかがわれず、発生した問題のすべての責任を一人金さんに押しつけ、負わせることによって解決を図るという思考に収斂していっているようにみえます。これは正当なことでしょうか。一体、金さんがこのような目にあわなければならない何をしたのでしょうか。論文を読んだかぎりでは、心の底から言いたいこと、言わなければならないと信じることを金さんは書き、発表しただけだと私は思っていますが、そうではないのでしょうか?


そもそも佐藤優氏とは、どのような物書きであり、岩波書店にとってどのような存在の人物なのでしょうか?

昨年末から新年にかけてイスラエルがガザ大虐殺を敢行したとき、佐藤氏は『アサヒ芸能』などの週刊誌で全面的にイスラエル擁護の論陣を張り、さすがにこれには多くの人が眉を顰め、佐藤氏についての認識を改めた人も中にはいるようですが、実は佐藤氏は2006年にすでに

「アラブの原理主義やパレスチナの極端な人たちの中から、「佐藤は日本におけるイスラエルの代弁者だ」ということで、「始末してしまったほうがいい」と言ってくる人たちが出てくるかもしれない。それはそれでかまわない。それを覚悟で贔屓しているわけです。しかしそれと同じように、アラブを贔屓筋にしている人たちは、イスラエルにやられても文句は言えないですよという話です。たとえばアルカイダ、ハマス、ヒズボラのテロリストを支援するような運動をやった場合、これはイスラエルにとって国家存亡の問題ですから、その人は消されても文句は言えない。それくらいの覚悟が求められる贔屓筋の話だと思います。」(『インテリジェンス 武器なき戦争』(幻冬舎、2006年11月)、168頁)

と述べています。パレスチナ問題は人の命や差別や貧困や平和といった人間存在の根源的問題ではなく、単に贔屓の問題、人の好き嫌いの問題だというわけです。しかし佐藤氏がご自分のイスラエル贔屓を宣言するのは自由ですが、自らと異なる考えや立場を勝手に「贔屓」の問題に限定し、矮小化し、なおかつそれらの人々に対して「消されても文句は言えない」などと述べるのは体のいい恫喝であり、卑劣な行為だと思います。しかもこの発言の前段では、「「佐藤は日本におけるイスラエルの代弁者だ」ということで、「始末してしまったほうがいい」と言ってくる人たちが出てくるかもしれない。」などとこの時点では少なくとも公的には誰も「佐藤は日本におけるイスラエルの代弁者だ」などと言ってはいないのに、まして「始末してしまったほうがいい」などの発言は現在でさえなされてはいないのに、あらかじめその場面を想定して述べているのは、自分への批判に対する牽制のつもりなのか、それとも計算づくの確信犯としての発言なのか、どちらにせよ本当に独善的な不快な議論だと思います。金光翔さんの論文をめぐってなされた佐藤氏の一連の行動も本質的には同じではないかと私は思いますが、世の中には多種多様な人間が存在するとしても、社会の公器をつかってこのような物言いの主張をする人は初めて見たように思います。

岩波書店について私は歴史的なこともふくめて知るところはわずかですが、それでも忘れがたい印象的な挿話を幾つか記憶しています。たとえば中野重治は1938年の執筆禁止処分のとき、生活に窮して斎藤茂吉に宛てて、岩波書店に校正係として雇われることはできまいか、そういう口があったらお取りもちを願いたい、と書いた手紙を出したそうです。その話は上手くはいかなかったようですが、岩波の二階で岩波茂雄さんに会って、『奉天三十年』という本を貰ったそうです。この出版者が怪物のようなおもしろい顔をしているのも、そのときわたしは初めて知った、などと中野重治は書いていますが、その筆致にはいかにも懐かしそうな、愉しそうな感じが滲み出ているように思えます。

また、安江良介氏について、在日朝鮮人作家の徐京植氏は、

「いまになってみれば、初めてお会いしたときも、また母を見舞っていただいたときも、安江さんが安易な気休めを口にしなかったのは、ジャーナリストとしての自らの情勢判断に忠実だったからであり、何よりも、私のような若輩に対しても、また私の母のような一介の庶民に対しても、誠実かつ対等に向かい合おうとする姿勢の故であったと思う。長くお付き合いいただいたが、安江さんのそうした姿勢にはいささかも変化はなかった。(略) 安江さんは同じ講演で、日本の朝鮮支配を批判した「殆ど無に等しいほど限られた少数の人たち」の例として中野重治、槇村浩、柳宗悦の名を挙げ、「そのような先人がいたことに私は日本人としてわずかに慰められている」と述べている。だが、私自身はむしろ、安江さんは尾崎秀実のような人の細い系譜に位置する人だったのではなかろうかと、勝手な想像をしている。尾崎にとっては中国、安江さんにとっては朝鮮が、日本および日本人の姿を照らし出す鏡だった。アジアの隣人と真に連帯できる日本を築くことが、両者の生涯に共通する主題だった。それだけではない。野村浩一先生は尾崎を「単独の革命者」と評しているが、この名は現代日本においては安江良介さんにこそふさわしいと私は思うのである。のちの世の日本人は、この時代に安江良介という先人がいたことによってわずかに慰められることになるだろう。」

と述べています。徐京植さんは私には現代日本の最も優れた作家の一人と映っていますが、徐さんのような人からこんなに深い信頼を寄せられる安江良介という人にはきっとそれだけのものが備わっていたのだろうと想像します。

それから、京谷秀夫氏は『中央公論』の編集者として遭遇し、深い苦悩を味わうことになった「風流夢譚事件」について『1961年冬』(晩聲社1983年)という本を書かれていますが、その中で岩波書店にかんし次のように述べています。

「『世界』は戦後に創刊された雑誌であり今日まで数代の編集長によって編集されたであろうが、編集長の交代が誌面から感じとれないほど、編集の発想も態度も一貫しているようなところがあり、ここには、いわば不動のジャーナリズムといったものがある。」「彼ら右翼は、中央公論社-『中央公論』が、彼らの言う進歩的ジャーナリズムのなかで最も弱い環であることを確実に感じ取っていたのではないかということである。彼らが、岩波書店-『世界』の中に楔を打ち込むことが不可能であるのに対して、中央公論社-『中央公論』には、それがはるかに容易であるという認識を持っていたであろうことに、私が気づいたのも、同じく事件の後である。そして事件の経過は、彼らの認識はまったく正しかったことを実証してしまった。」「おそらく右翼にしても、『世界』を相手にすることは、そもそも断念していたであろう。その強固な一枚岩的性格は、彼らといえども手に負えない存在だったに違いない。しかし『中央公論』に対しては、外部から力を加えれば、内部から分裂を起こすような案外に脆い存在であることを、彼らは看取していたに違いない。そして『中央公論』を崩すことによって、彼らのいう進歩的ジャーナリズムの戦線を分断し、『世界』を孤立させることができるという判断があったのかもしれない。」

京谷氏の目に映っていた岩波書店と現在の岩波書店との間にある目のくらむような深い裂け目。これが金光翔という在日朝鮮人三世である社員の存在をとおして映し出されることになったというのも、決して偶然ではないと思います。なるほど現在の岩波書店にも「一枚岩的性格」がうかがえないことはありません。でもそれは『1961年冬』において京谷氏が何度も述べているかつてのそれとは性格を異にし、正当な根拠も示すことなくたった一人の社員に対して会社と組合が一丸となって攻撃にかかるような性質のものに変貌してしまっていることをイヤでも感じないわけにはいきません。

このところ「在日特権を許さない市民の会」なる団体が注目を集めていますが、彼らの言動の端々にはこの種の集団にはめずらしく何か異様に意気揚々とした感じがあります。「カルデロン一家を叩き出す」「竹島を韓国領だと主張する『不逞朝鮮人』を日本から叩き出す」というような発言の恐ろしく煽情的かつ自信たっぷりの物言いをみると、もう日本社会はこれまでとはちがう、自分たちの存在がうけ入れられる下地が着々と整いつつある、心底恐れなければならない抵抗などもはやないであろう。彼らは現にこのような自信をもっているのではないかという印象をうけますが、その自信には相応の根拠が存在するように思えます。このような事態は戦後一度も現れたことがないはずです。佐藤優氏を取り巻くさまざまな現象についても私は戦後初の出来事だと感じていますが、双方の出来事は深部においてひびき合い、混在しているのではないのでしょうか。金光翔さんはいち早くこのような事態到来の可能性、その危険な萌芽を見抜いたのでしょう。『<佐藤優現象>批判』は鋭い直感力、幅広い視野、そして何よりも粘り強い正確な思考力に支えられた優れた論文だと思いますが、それらすべての基礎となっているのは現状への強い危機感であることは間違いないでしょう。


佐藤優さんは、『週刊金曜日』の連載「佐藤優の飛耳長目」(2008年4月11日号)で、沖縄戦集団自決裁判の第一審の「原告団が、『沖縄ノート』の内容に異議があるならば、版元の岩波書店を訪ね、議論をすればよい。筆者も岩波書店とは付き合いがあるが、岩波側は誠実に対応すると思う」と記述していますが、このような文章を読むと、佐藤氏はあるいは岩波書店の大株主または岩波書店の会長職にでも就いているのだろうかと思ってしまいます。一体、この発言は岩波書店と相談の上でなされたものなのでしょうか? 現に裁判を争っている相手当事者の出版社を、訴訟にもちこんだもう片方が訪問して会合をもつ話など、これまで私は聞いたことがありませんし、まして『沖縄ノート』の内容に対する異議について著者である大江健三郎氏を差し置いた場所でどんな話ができるというのか、不思議の感に堪えないし、佐藤氏の態度はさまざまな意味において不遜に過ぎるのではないでしょうか。皆様方はこのような発言をどのように感じ、どのようにうけとめていらっしゃるのでしょうか?

以上、率直に書かせていただきました。もし何らかのご回答をいただければ大変うれしく思います。

4月16日
[ 2009/04/26 00:00 ] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

岩波書店代表取締役社長・山口昭男氏と佐藤優 

<1>

『SPA!』2008年12月9日号(12月2日売)で、「佐藤優のインテリジェンス職業相談 第三回」なる記事で、佐藤優がまた、小林よしのりとの争いについて書いている。「辺見庸の警告と<佐藤優現象>の2つの側面」および「小林よしのりと佐藤優の「戦争」について」で書いたように、佐藤は、『SPA』の少し前の号(2008年9月23日号)で、「佐藤優のインテリジェンス職業相談 第1回 第2回」と題して、小林批判を行なっており、佐藤による『SPA!』での小林批判は今回が二度目となる。

佐藤は前回と同様、この「本職業相談は、『SAPIO』11月26日号(小学館)に掲載の「ゴーマニズム宣言」第36章を題材にしたフィクションです。実在の人物・団体との間に何か類似性があったとしても、それは偶然の一致にすぎません」と、これが「フィクション」であると断った上で、「わしは日本一の政治漫画家だ」と述べる「大林わるのり(ペンネーム) 55歳」が、佐藤に相談し、佐藤が回答する、という形式をとっている。

もちろん、「大林わるのり」は、小林が想定されている。「大林わるのり」は、ここで主に「「言論封殺魔」がやってきて、あらゆる雑誌編集部に手を回しているのでわしの素晴らしい原稿が日の目を見ない」、また、自分が「言論封殺魔」を批判した漫画で、「すこし「飛ばし」(事実でない記述をすること)てしま」い、「事実誤認で「言論封殺魔」から損害賠償請求をされるのではないか?そのことを考えると心配で夜も眠れない」と、佐藤に相談している。

そして、ここでの「事実誤認」の一例として、この「首都圏労働組合特設ブログ」が挙げられているのである。佐藤は、「大林わるのり」に、以下のように言わせている。「「言論封殺・弾圧を詳細に報告している」とある労働組合のブログを紹介したが、この労働組合が委員長、書記長の名前、住所、電話番号もわからないユウレイ組合だったのだ」と。

さあ、ついに佐藤が私の件に公的に言及してきたわけである。そして、ここでの記述は、以下で見るように、この主張が佐藤の驚くべき間抜けさを示していることもさることながら、非常に興味深い情報、すなわち、佐藤と岩波書店上層部との密接なつながりを示してくれていると思われるのである。以下、順次見ていこう。

まず、この記述から、佐藤が、労働法の初歩的な知識も持ち合わせていないらしい、ということがわかる。知っている人には今さらと思われるかもしれないが、少し我慢していただくということで、まずはこの件について述べておこう。

この発言を読む限り、佐藤は、「憲法上の労働組合」と「労働組合法上の労働組合」との区別がついていないようである。こんなもの、労働法の初歩の初歩ではないか。

「労働組合法上の労働組合」とは、労働組合法の保護を受けることができる労働組合を指し、労働組合法第2条、第5条第2項の以下の要件、すなわち、

①労働者が主体となって組織している。(第2条)
②自主的に運営している。(第2条)
③主な目的が労働条件の維持改善である。(第2条)
④2名以上。(第2条)
⑤組合規約には組合の名称・主たる事務所の所在地、組合員の差別的扱いをしない、総会を少なくとも毎年1回開く、などの規定を明記する。(第5条第2項)

を満たすことが必要である。

佐藤が言う、「委員長、書記長の名前、住所、電話番号もわからない」という発言からすれば、佐藤は、組合規約にそうした情報が盛り込まれていない可能性がある(⑤の不成立)、もしくは公開されていない、と主張したいようである。

まず、佐藤の主張を前者(⑤の不成立)の意味で解釈してみよう。組合規約に上記の情報が盛り込まれていないとすれば、その組合は、「労働組合法上の労働組合」ではないということになろう(ただし、判例上、組合規約が不備でも実態を考慮して「労働組合法上の労働組合」と認められた事例はある)。では、この組合は「ユウレイ組合」なのかと言えば、そうではないのである。「憲法上の労働組合」(法外組合)というカテゴリーが存在するからである。

憲法28条は、「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利」を保障しているから、仮に、ある労働組合が、⑤を満たさず、「労働組合上の労働組合」ではなかったとしても、①~④を満たしていれば、「憲法上の労働組合」として団結権・団体交渉権・団体行動権は行使できる。もちろん、憲法28条に依拠して訴訟もできるし、判例でも、その組合員に対して不当労働行為が成立すると判示している。

この場合、①の「2名以上」の労働者とは、「職業の種類を問わず、賃金、給料その他これに準ずる収入によって生活する者」(労働組合法第3条)であって、同じ会社の社員でなくとも、正社員でなくとも、失業者でもよい。誰にでも一人は、協力してもらえる人はいるだろうから、①~④の要件をクリアするのが容易であることは明らかであろう。むしろ、「ユウレイ組合」で居続ける方が難しいとすら言える。だから、「委員長、書記長の名前、住所、電話番号」が労働規約上明記されていることと、「ユウレイ組合」であることとは関係がないのであって、佐藤の主張は、佐藤が「労働組合法上の労働組合」と「憲法上の労働組合」の区別という、労働法の初歩的な知識を持っていないことを示している。

次に、佐藤の主張を、外部に対して、「委員長、書記長の名前、住所、電話番号」が公開されていないから「ユウレイ組合」だと言っている、と解釈してみよう。この主張は論外である。情報の外部への公開性は、労働組合の構成要件とは全く関係がないからである。「労働組合法上の労働組合」であっても、労働規約を経営者に提出する必要はない。だから、こちらの解釈であれば、佐藤の「ユウレイ組合」云々の主張が成り立つ余地は全くないのである。

なお、仮に佐藤が、首都圏労働組合が、このブログで上記の情報を出していないことを問題としているならば、それがさらに支離滅裂であることは言うまでもない。インターネット上に上記の情報を出す義務はないし(連絡をとりたい人間は、組合のメールアドレスを公開しているのだから、そちらに連絡すればよい)、インターネット上に何ら情報を出していない労働組合など、無数に存在するだろうからである。

さて、首都圏労働組合は「労働組合法上の労働組合」であるが、組合員の多忙及び怠惰により、現時点では、まだ労働委員会への資格審査の申請をしていない。仮に規約に不備があれば、「労働組合法上の労働組合」と言えなくなるかもしれないが(ただし、「労働委員会における資格審査の実務においては、補正指導によってほとんどすべての組合が規約上の要件を備えることになるので、「規約不備組合」の法的地位を論ずる実益は少ない。」(菅野和夫『労働法 第八版』弘文堂、2008年、477~478頁))、少なくとも「憲法上の労働組合」であるとは間違いなく言えるだろう。だから、佐藤が、「大林わるのり」に語らせている「ユウレイ組合」云々の主張は馬鹿げているし、この件で小林が「事実誤認で「言論封殺魔」から損害賠償請求をされる」可能性など、100%存在しない。

だが、ここで中心的に考えたいのは、こうした、佐藤の下らない主張そのものについて、ではない。まさか佐藤は、「首都圏労働組合特設ブログ」のホームページからの情報だけで、こうした無謀な主張をしたわけではあるまい。誰が、佐藤に、こうした支離滅裂な主張を吹き込んだのか、という問題が残るのである。この「首都圏労働組合特設ブログ」の読者なら、既にお気付きかもしれないが、実は、佐藤の主張は、岩波書店の経営者の主張と極めて似ているのである。もともと、後述するように、佐藤と岩波書店経営者との付き合いがある程度あり、親しいことは知っていたが、これほどまでとは思っていなかった。今回の『SPA!』の佐藤の発言は、両者に濃厚な関係があることを強く示唆する重要な資料だと思われる。

私は以前、「岩波書店による私への攻撃① 「首都圏労働組合 特設ブログ」を閉鎖させようとする圧力」の「(注1)」で、岩波書店の首都圏労働組合に関する主張について、以下のように述べた。

「会社(注・岩波書店)は、首都圏労働組合に実体があると判断する、規約などの材料を自分たちは持ち合わせていないと言っているが、では規約を渡せばいいのか聞くと、それはあくまで検討材料の一つだ、とのことである。組合に実体があると認める客観的な基準を示さず、実体があるかを判断する主体はあくまでも会社側、という論理なのだ。労使対等という、労働法の基本原則から乖離していることは言うまでもない。こんな論理ならばいくらでも「実体があると判断する」ことを先延ばしできるから、実際には、会社が、首都圏労働組合が労働委員会による資格審査に通って、法人として不当労働行為の救済申立ができるようになるまで、「実体があると見なさない」ということだろう。」

佐藤の主張は、岩波書店の首都圏労働組合に対する主張と瓜二つであることは明白であろう。

だが、岩波書店のここでの主張は、団交拒否の、典型的な不当労働行為である。例えば、手元にある労働組合関係の入門書(ミドルネット『ひとりでも闘える労働組合読本』緑風出版、1998年)にも、「組合結成の通告に対して、会社は、「組合員全員の名簿を提出しなければ組合としてみとめない」、「法律のみとめる組合ではない」(管理職組合の場合など)など、組合否認の姿勢でのぞんでくることが往々にしてあります。こうした会社の主張にしたがう必要はありませんし、団交拒否は不当労働行為になります」(27頁)とある。

また、ここでの岩波書店の主張は、岩波書店も佐藤と同じく、「憲法上の労働組合」と「労働法上の労働組合」の区別がついていない(か、意図的に無視している)ことを示している。憲法上の労働組合であれば、「実体があると判断」するためには、規約の有無は無関係だからである。

「憲法上の労働組合」は、団交拒否への「労働組合法上の労働組合」の場合の法的な対処法のうち、労働委員会への「あっせん申請」「不当労働行為救済の申し立て」はできないが、裁判所への「団体交渉を求め得る地位の確認訴訟」「団体交渉を求め得る仮の地位を定める仮処分」「団結権侵害を理由とする不法行為に基づく損害賠償請求」は可能である(浅井隆『労使協定・就業規則・労務管理Q&A 補訂版』労務行政、2008年、184~186頁)。

今回の佐藤の主張から推定するに、岩波書店の不当労働行為を、こちら側が放置していたところ、岩波書店側が「首都圏労働組合が実体がある労働組合ではないという、自分たちの判断は正しかった」と早合点して、佐藤に対して、「首都圏労働組合はユウレイ組合だ」と吹聴し、そして、佐藤は、岩波書店の主張を真に受けて、今回の『SPA!』の主張で恥を晒すに至った、というのがおおよその顛末ではないかと思われる(ただし、岩波書店は首都圏労働組合とのやりとりにおいて、「委員長」「住所」は認識しているはずである。岩波書店が佐藤に「ユウレイ組合」なる言葉を伝えた後、佐藤が、「委員長」「住所」も分かっていないと誤解したのだと思われる)。民主党の永田メール事件のようなものだ(注)

この「首都圏労働組合特設ブログ」で何度も書いてきているように、岩波書店は、法的な無知か確信犯かは不明だが、労働基準法の職場環境配慮義務を無視して岩波書店労働組合への私への嫌がらせを容認し、行政機関による「あっせん」も拒否したり(「『週刊新潮』の記事について⑧:岩波書店労働組合による「嫌がらせ」を容認する岩波書店 」)、事実の捏造(しかもそれが捏造であることは岩波書店が一番よく知っているはずの)も交えた『週刊新潮』の私に対する誹謗中傷記事について、『週刊新潮』に抗議するどころか、記事により被った会社側の不利益は私のせいだとして攻撃してきたり(「岩波書店による私への攻撃④岩波書店のダブルスタンダード2:岩波書店役員は『日本の思想』を読んだのか」の「(注)」参照 )、個人の資格として書いた私の論文(「<佐藤優現象>批判」)に対して、「個人としての立場」と「社員としての立場」を区別することはできないと主張して「厳重注意」処分の対象にしたり(しかも、岡本厚「世界」編集部長による「個人としての」執筆活動は容認されている(「岩波書店による私への攻撃③岩波書店のダブルスタンダード:「「個人としての立場」と「社員としての立場」を区別することはできない」という主張」)、岩波書店から1冊でも本を出版するか、または、『世界』等の岩波書店の雑誌で何回か記事を書いた人に対しては、その人の本や記事の発行元が岩波書店でも他社でも、批判してはならない、批判した場合は、「口頭による注意」以上の処分を行なうこともあるうるなどと私に対して主張したり(「岩波書店による私への攻撃②「鄭大均さんも「岩波書店の著者」」――「岩波書店の著者」とは誰か」)するなど、労働法・憲法違反の主張を私に対して繰り返してきているが、この首都圏労働組合に対する主張も、こうした労働法・憲法違反の主張の一つである。

それにしても佐藤は、私が何度も書いているように、私の論文について『週刊新潮』で、「私(注・佐藤)が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容です」などと言っているにもかかわらず、論文中のどこが「言ってもいないこと」なのかすら示せておらず、一切反論していないのである。やっと、私が関係する件に言及したと思ったら、論文「<佐藤優現象>批判」や個人ブログの件ではなく、首都圏労働組合と岩波書店の関係のことだった。これでは、佐藤は、自分がなすべきことから逃亡しておいて、確実に勝てると思った(錯覚した)首都圏労働組合のネタを持ち出すことで、自分があたかも金に反論しているようなイメージを与えたかっただけだ、と言われても仕方ないだろう。そして、佐藤が確実に勝てると思ったであろう、その首都圏労働組合が「ユウレイ組合」だという主張自体が、上記のように破綻しているのだから、悲惨というほかない。

また、佐藤が今回の『SPA!』で取り上げている「『SAPIO』11月26日号(小学館)に掲載の「ゴーマニズム宣言」第36章」で、小林(およびそのスタッフ)が私に言及しているのは、以下の2箇所である。

①「さて、沖縄で、すっかり若者からその偏向振りを見抜かれている新聞を、懸命にヨイショする「言論封殺魔」(注・佐藤のこと)は、本土ではあちこちの出版社に圧力をかけて自分への反論を封殺している。ミニコミの編集部にまで弁護士と共に押しかけ、岩波書店の一社員の批判まで封じ込め、『AERA』に書かれた自分の評伝も、気にくわなかったらしく、執筆者を吊るし上げ、やりたい放題!」

②「「実話ナックルズRARE」によると、言論封殺魔は「AERA」に評伝を書いた朝日の記者を、マスコミ関係者が集まる勉強会で参加者の面前で30分以上つるし上げ、その後さらに公開質問状をつきつけ、記者は社内で干されてしまったという。また、ミニコミ誌での批判まで封じ込まれた岩波社員は、「首都圏労働組合特設ブログ」において岩波書店内部で行われている恐るべき言論封殺・弾圧を詳細に報告している。」

①は小林によるもので、②はそのスタッフによるもの(欄外)だ。佐藤は、今回の『SPA!』で、②で記述されている、「「首都圏労働組合特設ブログ」において岩波書店内部で行われている恐るべき言論封殺・弾圧」について、「事実誤認で「言論封殺魔」(注・佐藤)から(注・小林が)損害賠償請求をされる」ものだとしているが、明らかなように、この記述からはそもそも、佐藤に関する名誉毀損は成立しようがないのである。仮にこの記述により、小林が名誉毀損で「損害賠償請求」される可能性があるとすれば、それは佐藤からではなく、岩波書店からである。だから、ここで佐藤は、自分とは無関係にもかかわらず、勝てると思った(錯覚した)材料を用いて、印象操作しようとしているわけである。

そして、①②でも指摘されている、佐藤が、『インパクション』(①では「ミニコミ」、②では「ミニコミ誌」)に「弁護士と共に押しかけ」たことについては(以前書いた、「2008年1月10日 佐藤優・安田好弘弁護士・『インパクション』編集長による会合」や、「佐藤優・安田好弘弁護士・『インパクション』編集長による会合の内容について①」および「佐藤優・安田好弘弁護士・『インパクション』編集長による会合の内容について②」を参照のこと)沈黙を守っている。自分とは無関係なことを取り上げておきながら、肝心なことには答えていないのである。呆れるほかない。


<2>

ここで、佐藤優と岩波書店経営者との親しさを推定させるいくつかの文章を引用しておこう。

佐藤は、岩波書店の社風を、産経新聞と同じく、「自らの正しいと信じる筋をたいせつにし、「然りには然り、否には否」をいう」ものだとして(なぜ社員でもないのにそのように断定できるかは不明だが)、「この社風を体現している岩波書店の山口昭男社長」を、「私はとても尊敬している」と述べている(『獄中記』岩波書店、2006年12月、464頁)。

また、岩波書店の山口昭男・代表取締役社長は、あるインタビューで、「最近、佐藤優さんがヘーゲル、マルクスからハーバーマスまでの読み直しをしていて、壮大な解釈を試みているのは面白いし、新しさがあると思います」と語っている(『論座』2008年5月号。私の論文が刊行された後、という時期にも注目すべきである)。

また、「小林よしのりと佐藤優の「戦争」について」でも改めて引用したように、佐藤は『週刊新潮』の記事で、「『IMPACTION』のみならず、岩波にも責任があります。社外秘の文書がこんなに簡単に漏れてしまう所とは安心して仕事が出来ない。今後の対応によっては、訴訟に出ることも辞しません」とまで述べているにもかかわらず、その後も何事もなかったように、『世界』で論文を書いており、「今次訴訟(注・沖縄集団自決訴訟の第一審)の原告団が、『沖縄ノート』の内容に異議があるならば、版元の岩波書店を訪ね、議論をすればよい。筆者も岩波書店とは付き合いがあるが、岩波側は誠実に対応すると思う」とも発言している(『金曜日』2008年4月11日号「佐藤優の飛耳長目」)。

佐藤の『獄中記』の上記の引用から推察するに、佐藤と山口氏は、元から親しい関係にあるようである。また、『週刊新潮』で佐藤がここまで岩波書店を批判し、その後も佐藤が批判した状況は全く変わっていないのに、何事もなかったかのように、お互いで褒め合っているのである。とすると、裏で、山口氏のような岩波書店上層部と佐藤が、何らかの手打ちをした、と推定するのが自然であろう。

山口氏は上記のインタビューの中で、「いまの福田首相は、そういう歴史認識みたいなものは脇へ置いておいて、みたいな話になっていますから、靖国問題は、憲法問題はどうなったのか、追及したい気持ちになります」と発言している。だが、福田首相(当時)を追及する前に、山口氏は、佐藤の「歴史認識」、「靖国」、「憲法」その他に関する発言について山口社長がどう考えているのか、また、自ら「右翼」、「国家主義者」であることを自任し、歴史認識等でその言葉にふさわしい発言を繰り返す佐藤を、岩波書店が重用することの社会的影響力について、山口氏が社長としてどう考えているのかを明らかにすべきではないのか。

そのことは、山口氏が自ら語っている、「さまざまな課題について総合的に議論できる20代から60代ぐらいまでの論者を集めて構想を戦わせ発信するということをやりたいですね」(「インタビュー いま声をあげなければ将来に悔いを残す」『論座』2005年4月号)という志向にも添うものだと思う。そうすれば、いろいろなことが分かりやすくなるだろう。

では、なぜ山口氏のような岩波書店の経営者が、ここまで佐藤を持ち上げるのだろうか。以下の山口氏と辻井喬とのやりとりをもとに考えてみよう(「特別対談 時代を語る――「戦後」と現在」(辻井喬・山口昭男)『軍縮問題資料』2007年11月号。強調は引用者)。

山口  それでは、この国の未来を考えるのにどういう視点に立ったらいいか、ということですが、辻井さんは、伝統やナショナリズムという問題をもう一度考え直す必要があると、以前からおっしゃっておられますね。

辻井  伝統と言えばすぐ教育勅語や本居宣長に行ってしまう、そういう伝統ではないものを考える。伝統を排除してしまうと、例えば現代詩は、影響力という点では短歌にはかなわないのです。ナショナリズムも、狂ったような国粋主義でないナショナリズムもありますよ、と提示したい。今、日本がナショナリズムを言うなら、他の国が持っていない平和主義、これこそが誇るべき日本の特長だと言うほかはない。平和的なナショナリズムを打ち出すのです。国が経済的発展段階に入った時は、えてして戦闘的なナショナリズムに傾きがちなものです。中国は今、相当な力を使って、国内で起こってくる戦闘的ナショナリズムを抑えていますよ。

山口  私も平和主義のナショナリズムがあると思います。そして平和主義と言えば憲法九条です。改正云々の話で言えば、私はどちらかというと、加藤典洋さんの論に近くて、現実との矛盾があってもいいじゃないか、と思う。憲法九条というのはそれ自体が「大きな物語」なのだから、その理想や理念が現実と矛盾しているから変えろ、と言う以前の問題であって、そういうものを我々は心の中に持っていると考えたいのです。」

この両者においては、「「戦後社会」批判から「戦後社会」肯定へ――2005・2006年以降のリベラル・左派の変動・再編について」で指摘したように、「「戦後的なもの」を肯定するナショナリズム」が前提とされている。「リベラル・左派からの私の論文への批判について(2)」でも書いたが、日本の「平和憲法」と韓国の「徴兵制」はワンセットなのだから、「他の国が持っていない平和主義、これこそが誇るべき日本の特長だ」などと言われても困ってしまうのだが、それはさておき、この「平和的なナショナリズム」「平和主義のナショナリズム」に、護憲派ジャーナリズム全体を持って行きたいというのが、山口氏や辻井氏ら、リベラル・左派のえらい人たちの考えていることではないか、と思われる。

実際に、リベラル・左派が「ナショナリズム」を旗印にすることの必要性は、山口氏だけではなく、<佐藤優現象>を推進するリベラル・左派の人々によって、繰り返し語られている。以前、個人ブログで引用した、山口二郎や萱野稔人の発言はその典型であるし、また、『世界』の岡本厚編集長も、佐藤の発言を肯定的に引用しつつ、以下のように述べている。

「そもそも日本社会はいま、一人一人がバラバラにされ、自分のことしか考えない私利私欲の時代である。「同胞についての想像力がものすごく狭い範囲にしか及ばない(本号、佐藤優・山口二郎対談)ときに、全体のことを議論することはできない」(『世界』2007年11月号「編集後記」)。

ここで、岡本氏が佐藤の名前を挙げて、<国民>ですらない「同胞」という概念を肯定的に用いているように、護憲派の「平和主義のナショナリズム」への移行は、単に、市民主義的ナショナリズムを肯定する、ということではないのである。それについてはまた別の機会に述べるとしよう。いずれにせよ、護憲派の「平和主義のナショナリズム」への移行とは、<佐藤優現象>とほぼ同義であり、<護憲派の民主党化>とでも表現してもよい。これが、護憲派ジャーナリズムで今一番進んでいるのが、山口氏が昵懇の佐高信が発行元(株式会社金曜日)の社長を務める、『金曜日』である(例えば、「仰天しました――『金曜日』と「日の丸」」参照)。

こうした移行を進めるにあたって、佐藤(のような右翼)は不可欠である。鈴木邦男では駄目なのである。なぜならば、鈴木は、同時期において、右派・保守論壇で右傾化を推進したり排外主義を煽動したりする発言をしないからだ。右派・保守論壇で右傾化を推進したり排外主義を煽動したりする人間が登場することが、自然だという<空気>の下ではじめて、「平和主義のナショナリズム」は成立する。

私の論文が刊行されて1年が経つが、佐藤を重用するリベラル・左派への私の批判に対して、リベラル・左派がほぼ沈黙を守っていることも、この<空気>の問題に原因の一つがあると思われる。なぜ自分たちが佐藤を使うか、という弁明自体が、こうした<空気>を壊してしまうことになるからだ。「<佐藤優現象>と侵食される「言論・表現の自由」」でも引用したが、『金曜日』編集部で、佐藤と昵懇の伊田浩之は、『金曜日』2008年6月27日号の編集後記で、以下のように述べている。

「本誌連載「飛耳長目」をまとめた佐藤優さんの新刊『世界認識のための情報術』を7月中旬、発売します。佐藤さんは、この本のために400字詰め原稿用紙100枚超を書き下ろしました。本誌購読者などで佐藤さんの言説に違和感を持たれている方がいれば、その方にこそ書き下ろし部分を読んでいただきたいと思います。」

そこでも指摘したが、佐藤が『金曜日』に書こうとするのは佐藤の勝手であって、佐藤ではなく、『金曜日』こそが、佐藤をなぜ『金曜日』が使うのか、また、左派ジャーナリズムたる『金曜日』が佐藤を重用することが、佐藤が右派メディアを中心に展開している排外主義的・国家主義的主張に対する、一般読者の警戒感や、リベラル・左派の抵抗感を弱める役割を果たしていないと本気で考えているのか、答えるべきであるにもかかわらず、この伊田の発言においては、そうした疑問が登場する余地ははじめから存在しないことになっている。「<佐藤優現象>批判」に答えるかのように振舞いながら、<空気>を壊すまいという意志を貫徹させているのである。

「平和主義のナショナリズム」にとって、佐藤が積極的に発言している、格差問題や、沖縄集団自決問題のような国内統合問題こそが重要なのであって、佐藤が排外主義を煽る歴史認識問題や、在日朝鮮人への弾圧等は周辺的なものに過ぎない。むしろ、行き過ぎた発言をしていてくれた方が、旧来の護憲派からの「平和主義のナショナリズム」への移行にとって、都合がいいのである。「平和主義のナショナリズム」に、旧来の護憲派の読者を適応させる、もしくは慣れさせるためには、その方がよいということだ。

したがって、旧来の護憲派の読者を「平和主義のナショナリズム」に慣れさせ、移行させたい人々にとって、現段階では、佐藤優ほど重要な人物はおるまい。松本健一や萱野稔人や中島岳志といった、佐藤の小型版とでも言うべき連中では、役不足である。だからこそ、小林よしのりとの「戦争」で、佐藤の論壇における地位に危険が生じるや、早速『世界』で佐藤の連載が始まるわけである(新連載対談 大田昌秀・佐藤優「沖縄は未来をどう生きるか 第一回」『世界』2009年1月号(2008年12月8日売))。護憲派を「平和主義のナショナリズム」に再編するにあたって、<佐藤優現象>の継続は不可欠だからである。

それにしても、山口氏や岡本氏は、佐高が『金曜日』を佐藤と心中させようとしているように、岩波書店を佐藤と心中させるつもりなのだろうか?



(注)
私は、以下の会社の主張から、『週刊新潮』の私に関する記事に、実は岩波書店上層部が関与していたのではないか、という疑いを持っていたのだが、今回の『SPA!』の佐藤の記事から強く推測される、佐藤と岩波書店上層部の濃密な関係から、ますますその疑いを強くしている。

私が注目している会社の主張について書いておこう。そもそも、『週刊新潮』の記事は、佐藤が懇意の『週刊新潮』荻原信也記者に教唆したことが発端のようである。そして、2007年12月5日、宮部信明取締役(当時。現在は常務取締役)は、私の、(「『週刊新潮』の虚偽の記述に対して、会社として抗議はしないのか」という質問「『週刊新潮』の記事について②:「総連系の人間」と思わせようとする作為的な記事」および「『週刊新潮』の記事について③:異動経緯に関するでたらめ」で書いたことを中心に、虚偽と言える点を指摘した上での質問)に対して、以下のように答えているのである。

「記事に虚偽があるとかないとか論じようとは思わない。会社に危害があれば別ですけど。会社に被害があるなら考えますけどね。

「岩波書店による私への攻撃④岩波書店のダブルスタンダード2:岩波書店役員は『日本の思想』を読んだのか」の「(注)」でも書いたが、岩波書店側は私に対して、私の論文「<佐藤優現象>批判」の公表により、会社は不利益を被った、と主張し、その不利益の典型例として、『週刊新潮』の記事を挙げている。私が論文を書いたから、『週刊新潮』が記事にし、それにより会社が被害を被った、というのだ(2007年11月30日、宮部取締役答弁)。そして、岩波書店側は、そうした主張に基づいて、私へ「厳重注意」を行い、私へ「厳重注意」を下したこととその内容について、役員臨席で各部署でわざわざ臨時部会・課会を開いて全社員に報告したのである。そして、岩波書店側は、『週刊新潮』の記事が出たからこそ、緊急性に鑑み、わざわざ「臨時」の部会・課会を開いた、と主張している。

だが、もし岩波書店側が本気で、『週刊新潮』の記事で会社が被害を被った、と考えていたのならば、上記の2007年12月5日の宮部取締役のような発言がありうるのだろうか?

岩波書店側は、『週刊新潮』の記事で会社が被害を被ったと主張しているが、岩波書店側が主張する「被害」が、金のような問題社員が存在すると社会的に認識されたことを含むことは明らかである(「岩波書店による私への「厳重注意」について①」 で書いたように、岩波書店側は、当該記事の掲載されている『週刊新潮』の発売前に、「厳重注意」の根拠となる、論文に関する会社見解を定めたとしている。とすれば、『週刊新潮』の当該記事によって被ったとする会社の「被害」は、「厳重注意」の内容からは独立したものとなる)。そして、まさにその問題社員の行動として挙げられているものが、既に上記の記事で指摘しているように虚偽なのである。

したがって、もし岩波書店側が本気で、『週刊新潮』の記事で会社が被害を被ったと考えていたならば、その記事が虚偽であれば、金の人権とは無関係に、『週刊新潮』に抗議するはずであろう。また抗議しないとしても、その理由は、<仮に抗議すれば、『週刊新潮』その他のマスコミに、また面白おかしく書かれかねないから>といったものであるはずであって、岩波書店側が(金が主張するように)虚偽だと認めるか認めないかにかかわらず、金が虚偽だと主張する記述自体は、会社が被ったとする被害とは無関係だ、とは言わないだろう。ところが、上記の2007年12月5日の発言から明らかなように、宮部取締役は、金が虚偽だと主張する記述自体によっては、岩波書店は被害を被っていないと言っているに等しいのである。

これは非常に奇妙ではないか。『週刊新潮』の記事によって被ったという会社の被害を少なくとも理由の一つとして、「厳重注意」を下し、その緊急性に鑑み、わざわざ「臨時」の部会・課会を開いたのではなかったのか?

だから、そもそも岩波書店側は、本気で『週刊新潮』の記事で会社が被害を被ったと考えていたのかが極めて疑わしいのである。『週刊新潮』の記事は、「佐藤優・安田好弘弁護士・『インパクション』編集長による会合の内容について②:コメント(2)」でも書いたように、佐藤と『週刊新潮』記者の合作だったようだが、実は、岩波書店との合作でもあったのではないか?『週刊新潮』の記事が出たちょうどすぐ後に、「『週刊新潮』の記事について⑦:記事の尻馬に乗る岩波書店労働組合」で書いたように、岩波書店労働組合による私への嫌がらせがエスカレートするのも、あまりに出来すぎている気がする(ちなみに、当時の岩波書店労働組合執行委員会で、私に対して極めて敵対的であった副委員長(「ザ・メーキング・オブ・広辞苑」(『論座』2008年2月号)で、実名入り(39歳)で登場している)は、約半年後、辞典部課長(「広辞苑」担当)に「出世」している。この会社がいかに労使一体であるかを示す、典型的なエピソードであろう)。

なお、上記の2007年12月5日の宮部取締役の答弁は、「会社の役員としての見解」とのことである。また、これは、山口社長による私への「厳重注意」が行なわれた場でなされたものであり、山口社長もこの場に臨席している。山口社長はこの宮部編集部長の発言に対して、何ら口を挟んでいないから、山口社長の見解および会社見解も、この宮部編集部長の発言と同じだ、と見なしてよいだろう。

ちなみに、朝日新聞現役記者4名の匿名座談会では、社内上層部の権力闘争のせいで、マスコミに朝日新聞社の社内事情の情報が流出することが語られており、「実は朝日の役員たちは、それぞれ『週刊文春』とか『週刊新潮』の記者を抱えていると言われています」と述べられている(岩瀬達哉司会「白熱座談会 朝日新聞はどこまで堕ちるのか」(『月刊現代』2006年6月号))。そして、岩波書店上層部は、朝日新聞社上層部と関係が濃い。


(金光翔)


[ 2008/12/10 00:00 ] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)


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